小寺卓矢・森の写真館 top_image
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ヴィルヘルム・ハンマースホイと小栗康平

■たったいま、NHK「新日曜美術館~誰もいない部屋こそ美しい/北欧の画家・ハンマースホイ」を観終えました。

■100年前にデンマークで制作を重ねた画家。その徹底して静かな眼差しに貫かれた作品たちに、文字通り、息を呑みつつ見入ってしまいました。

■彼の作品がどのようなものかについての詳細は、長くなりそうなので、ここには書きません。

■しかし、こうした個性的な画家(←これ、究極の矛盾を孕んだ言い方かもしれませんけど…笑)の美意識や世界観に触れると、やはり「画家って、すげえなぁ…」と、戦慄に近い感慨を覚えます。特に、彼の愛用していたパレットの映像が出て来たときには、なんだかふるふるっと身震いする思いでした。

■そして、この番組ではさらに良かったことが。それは、それらの作品を解説(解釈)する映画監督・小栗康平氏のことばに触れられたことでした。

(じつは、そもそもこの番組を観ようと思ったのは、今朝新聞の番組欄に小さく書かれていた「沈黙の絵画」ということばと、その横に添えられていた「小栗康平」という名前を見つけたからでした…)

■動かないこと。動かないものごとを見つめること。または、”見る”という行為そのもの。そして、その行為なかで人の思いの中に立ち昇ってくる、”在る”ということへの感慨。または、”在る”ということ自体の本性、また、意味。

■ハンマースホイの絵自体ももちろん良かったのだけれど、小栗氏のことばは、もうそれはそれですでに独立した思想(小栗節?)として、ずんずんと僕の胸に迫ってきました。

■僕はそれに逐一、はっと気づかされ、深く納得させられ、また、励まされ、鼓舞され。

■しまいに、小栗氏が「”見る”という事について、例えば林のなかで佇んでいる人のことを考えてみましょう。」と言い及んだときには、一昨日まで森の撮影行に出かけていた僕はもう、胸中で「ああ…」という、解放とも安息ともつかない、深い深い溜息を吐いていました。

■今夜また同じ番組の再放送があるので、録画しよう、と。


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写真は、カバの倒木に生えたツリガネタケ。
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| 芸術 | 10:22 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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荒井良二

■本当は撮影に出かけるはずが、今日も一日執筆。ノっているような、煮詰まってしまっているような、つまり、抜けられない状態。

■そのような日に、つい先ほど偶然つけたTVでやっていたのがNHK「プロフェッショナル~荒井良二」。

■余計に、抜けられない状態の深度が増してしまった。寝られない。

| 芸術 | 22:48 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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新日曜美術館「志村ふくみの仕事」

さっき観たNHK教育の新日曜美術館「虹色のいのちをつなぐ 染織家・志村ふくみの仕事」が良かった。志村氏へのインタビューを中心とした構成だった。

志村氏の色を巡る論考や発言には、常に「いのち」が深く関わる。氏は、糸を染める染料を「植物から頂いている」という。

花から色を「頂く」ときの話が面白い。氏いわく、染物として一番美しく色が出るのは、開いた後の花ではなく、蕾のときなのだそうだ。そしてその色は、「色が匂い立つよう」だという。

開く直前の蕾という、静から動、言い換えれば”死”から”生”への移り変わりの刹那にこそ「いのち」の本質がきらめき立ち昇る、ということなのだろう。

じつは、僕は以前、自然グラフ誌のフォトエッセイ連載の春号で、蕾にまつわる拙文を書いたことがある。それはまさに、開く直前の花が持つ濃密な色とその生命感についての僕なりの感慨だった。

今まさに野に放たれんと、ぎりぎりに引き絞られた弓矢の如く、震えるようなテンションの中にグイと充填された「至極の色」。たしかにあの色はまさに「匂い立つ」と表現すべき色なのかもしれない――。僕は「なるほど…」と一人勝手に納得しながら、氏の話を聴いた。

氏は、これから開こうとする花を摘み取ってしまうことに対して後ろめたい思いを抱いているそうだ。しかし、そうした思いを自身の背に負いながら、やはり蕾を摘み、それにより得られた至極の色で糸を染め、布を織る。花から頂いた「いのち」を色に昇華させ、織物という人の暮らしの中で活かされるものとして、新たな生の形を与えてゆく。

そうした営みを淡々と何十年と積み重ねてきた氏の姿勢。僕は大変大変おこがましくも、そんな氏の姿にいたく共感を覚えてしまうのだった。

あと、いまも氏が格闘を続けているという「赤」という色についての話もいろいろと興味深かった。

「赤」はえらく手ごわい色なのだそうだ。それはほかの何色をも助けとして必要としない、完全に自己完結した色なのだそうだ。それゆえに、色として手におえない強さがあるのだという。

だが、「赤」にまつわることで何より印象深かったのは、氏が「赤は誰もが自分の中に持っている色だ」ということを言ったあとで、ぽろりと「赤は女の色」と表現したことだ。

氏はその後すぐに「いや、人間の色といってもいいかもしれないけれど…」と言い直した。けれど、僕は「赤は女の色」というその表現に、一瞬どきりとし、しかし同時に、今まで味わった事の無い新鮮な感覚を覚えた。

氏が口にした「赤は女の色」ということばには、たとえば「男は黒、女は赤」といった手垢まみれのジェンダー的色彩感覚のいやらしさ・息苦しさ・胡散臭さは微塵も感じられなかった。むしろ、えらく重たいのだけれどその一方でじつに爽快な、なんとも不思議な響きがあった。

それはやはり、女性として生きている氏が、赤も含めた色というものをすでに自らの「いのち」の一部として自身の中に取り込んでいるからなのだろうな、と思う。

花・色・いのち。そして、生・性・静(植物)。言葉遊びにすぎないけれど、なかなか面白い。

| 芸術 | 00:34 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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