小寺卓矢・森の写真館 top_image
bar

left_button_spaca.gif
info.gif
left_button_spaca.gif
works.gif
left_button_spaca.gif
profile.gif
left_button_spaca.gif
publish.gif
left_button_spaca.gif
diary.gif
left_button_spaca.gif
link.gif
left_button_spaca.gif
left_button_spaca.gif
ask.gif

| ページ選択 | 次へ

編集

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | コメント(-) | トラックバック(-) | 先頭へ↑

編集

故人を偲ぶ”ニュース”とは

■昨日(2日)の昼過ぎ、13時のNHKニュースだったろうか。

■トップニュースは、先のインドのホテル占拠事件で死亡した邦人男性の葬儀が行われた、という内容。

■葬儀場の映像と、葬儀がどのように行われたかという事実関係のコメントのあと、故人の友人2名のインタビュー録画映像が続いた。

■ひとりは「彼とは互いにフォークソングクラブに所属し、互いの家で泊まりあう仲だった。残念でならない…」というようなコメント。

■もうひとりは「彼は僕ら友人たちのなかではヒーローのような人だった。どうして彼がこんなことになるのか、解らない…」と、声を詰まらせながら。

■その後、カメラはライブのスタジオにもどる。

■いま流されたそのインタビュー映像をモニターで見ていたであろうアナウンサーのうつむいた表情が画面に映る。そして、一呼吸あったのち、アナウンサーはその目をゆっくりと上げる。故人への同情の念か、はたまた不条理な悲劇への怒りか哀しみか、憂いをにじませたようなその瞳が、カメラを通してこちらを見つめる。そして彼は「次のニュースは…」とことばを継いだ。

■つまり、インドの件は、それだけだった。葬儀の様子と、友人のコメント。たったそれだけの内容がそのニュースの全てだった。それが、今日の昼過ぎのトップニュースだった。

■これを見ながら、改めて僕は、ニュースとは何か、報道とはなにか、ジャーナリズムとは何か、また、公共放送とは何かを考えざるを得なかった。

■これは、いったい、誰のための、そして、何のための”ニュース”だったのだろうか――

■たしかに僕は、この”ニュース”を通じて、葬儀があったという事実を知った。そして、インドで起きた事件についてまたひとつ情報のコマを増やした。また、このことを通じて、あらためてこの事件の全体像に思いを馳せた。

■さらには、友人二人のコメントを通して「彼がこんなことになってしまった」ということの悲劇性を認識するに至った。この事件がじつに悲しい事件であったことを、至極当たり前のことではあるけれど、再度確認するに至った。

■きっと、この”ニュース”報道によって行われた情報伝達のうちには、僕も含めそれを受け取るべき不特定多数の視聴者にとっての、何かしらの「知らされる意義」が含まれていたと認めてもいいだろう。この”ニュース”が全くの無意味だとは、僕は決して思わない。

■だがしかし、と思う。

■さてさて、この事件について大変重要であるはずの、「どうして彼がこんなことに…」という問い、つまり、このさき決して繰り返されてはならない悲劇を生んだ事件の原因そのものへの切実なる問いは、いったいどこへ向かったら(向けられたら)いいのだろうか。

■なにしろ今日の昼過ぎのトップニュースは、その問い自体には一切深入りせず、悲劇を悲劇として伝えたままで、次のニュースへと移っていってしまったのだ。

■はたしてこの問いはこのままで、つまり、収録ビデオテープの中にそっと封じ込められたままで、荼毘に付された故人の遺骨同様、TV局のお蔵の棚にひっそりと安置されてしまうだけなのであろうか――

■うーん…。考えてしまう。

■「惜しい人を亡くして残念だね。なんとも悲しくて、許されざる事件だね…」とは思う。心情はゆすぶられる。

■でも、それだけでいいのか――?

■今回の件に限らず、僕は以前から、いわゆる「報道」というものが、特に人の”情動”に働きかける性質を持つ情報の提供をする際の作法について、たびたび違和感を感じてきた。

■特に民放TV報道がよく行う、物悲しかったりオドロオドロしかったりするBGMや、不安を掻き立てるような手ぶれ映像や隠し撮り風映像をともなった、見るものの感情に積極的に働きかけてくるような情報伝達の仕方に強い嫌悪感をもっていた。

■それは感情の意図的かつ一方的な操作であり、それによって少なからぬ視聴者は、無意識のうちに自律した判断意識をそがれていくことになるからだ。

■昨日のインドの件の放送に関しては、BGMも極端な演出映像もないから、それらの悪例と全く同列に語ることはできないだろう。

■しかし、僕はこの「葬儀が行われました」報道に関してもやはり、そうした悪例にどこか通じるような違和感を感じないわけにはいかなかった。

■報道が、事件・事故の本質的課題を問わずして、ことの悲劇性・不条理性のみを伝えて終わる、というあり方。視聴者の「理」や「論」に働きかけるのではなく、「感」や「情」のレベルで情報伝達を寸止めする、というやり方への、拭い難い疑念だ。

■はたして、僕らはこの”ニュース”に触れる事で、何について理解を深め、それに基づき何を考えるべきなのか。

■僕らはただ、涙をこらえてコメントをするこの二人の旧友に同情し、また、優秀かつ善良な人物であったに違いない故人の死を惜しみ、彼を巻き込んだ事件の不条理に、やり場の無い怒りの感情を高ぶらせていれば、もうそれでいいのだろうか――

■逆にいえば、伝える側であるNHK報道デスクは、いったい僕らに何を得させたくて、こうした取材をし、こうした編集をし、こうした”ニュース”を僕らの前に提示したのだろうか――

■もしかしたら、「情」レベルでの情報寸止めという方法を選んだ側には、じつはこんな言い分があるのかもしれない。

■「悲劇の原因など、改めて問うまでもないじゃないですか。それはすでに自明なのですよ。すなわち、”テロ”ですよ。過激派の存在、テロリストの存在こそが原因です。それはすでに皆さんおわかりのことですよね。この事件の問題の所在は、それをもってして十分明らかではないですか。いま善良なるミナサマやワタクシタチがなすべきは、無法を行う過激派に”怒り”、テロリストを”憎む”という事ではありませんか」と。

■そうなのかな――それでほんとにいいのかな――
スポンサーサイト

| ぼやき | 02:23 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

従わぬ者は

■やっぱり頭にきちゃうので、もう一発載せておきます。

「中山国交相「日教組強いところは学力低い」 発言後に撤回」
NIKKEI NET
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20080926AT3S2502N25092008.html


■上記リンクサイトの記述(中山氏の発言)を読んでいると、いくつかのことを思い出す。

■僕がある大人の集会で講演をさせていただいた後の交流会で、僕の普段の活動のうち、学校に赴いて行う講演活動の話になった。

■僕は、日ごろそうした活動の中で感じていることとして、僕のような部外者でもわかる現場教員の多忙の様、また特に、文化省の”猫の眼”行政に翻弄されて指導の組み立てに苦しんでいる現場の雰囲気などを紹介した。

■たとえば「生きる力の教育」。そういったカテゴリーの事柄に関して教員の方々は、限られた時間・予算・そして自分自身の経験的資質との間で、悩み、結構な苦労をしている。

■そんな部分で、部外者である僕のようなものを現場で有効に活用してもらうことで、こども達のために役に立てることがじつはあるのかもしれませんね、と。

■そんなことを言ったら、交流会参加者のうち、ある男性が突然声を荒げ次のようなことを言った。会社経営をされている方だった。

■「ええ?教員はそんなことのために外部から人を呼ぶのか?!なんで自分達で教えない。教師だろう。そもそも北教組の連中はそうやって自分の仕事をサボっているくせにアレをしろコレをしろと上に要求ばかり上げてくる。指導力が足りないのだ。そういう教師は辞めさせないと。学校は、校長の権限をもっと強くしないとダメなんだ。」

■その結構な勢いに僕は「おおっ」とたじろいだのだけれど、「いや、それでもですね…」と口を挟もうとした。

■そうしたら、その交流会の主催者である別の男性が「まあまあ。組合の先生も頑張ってますよ。むしろ組合活動を一生懸命やっている先生のほうが、子どものこともちゃんと考えていてくれる気がするな」というようなことを言って、場を収めてくれた。その方はPTA会長経験者だという。

■また、次のような経験も思い起こされる。

■10年ほど前、まだ僕が札幌にいたころのこと。そのころはまだ写真専業などというわけにはいかないので、ある職場で常勤職員をしていた。

■そこに、ある20才台前半の青年が「短期研修」ということでやってきた。ゆくゆくは親の経営する会社を継ぐらしいのだけれど、そのまえに異業種の現場でいろいろな体験をしたい、ということなのだという。

■言い方は悪いが、多分それは”御曹司”が受ける「帝王学」教育の一環であり、こうした研修を通し中小企業の実態を知り、さらには「こき使われる側の身になってみる」という体験のためだったのだろう。

■彼は遠からず、自らの血族関係のなかで「使う側」のトップに上り詰めてゆくのだろう。でも、僕は「一度は使われる側にたってみる」という発想自体はとても大事なことだと思ったし、なにしろ、その青年は明朗快活でなかなかいい男だったので、気持ちよく彼とともに仕事をしていた。

■しかしある日のこと。僕と上司が職場で雑談をしていた折に、どういう展開からだったかは忘れたが、旧国鉄解体、そして国労闘争の話になった。「国労ラーメン」が美味しいかマズイかの話だったか…。いや、もっとまじめに「不当解雇とは」という話をしていたかもしれない。

■すると、そこにその青年が現れ、すこし僕らの話を聞いたあとで、ちょっと皮肉な笑みを浮かべながらこう言い始めた。

■「国労の問題ってありますけど、でも、聞くところによれば、あの連中サボってばかりで仕事しないから、解雇されてもしょうがないってとこもあるんですよね。」

■きっと彼は、えてして深刻になりがちなこの手の話題を彼なりの方法で和ませようと、あえてそんなふうに口を挟んできたのかもしれない。その彼なりの気遣いは、感じられないでもなかった。

■しかし、それを言う彼の口ぶりと笑みを浮かべた表情の中には、同時に、やはりどうしても、彼の身に染み込んでいるであろう「帝王学」つまり「使う側の論理」のある種の冷徹さが感じられ、僕は正直、その一瞬、彼に対して嫌悪に近いものを感じてしまった。

■そして、その発言を聞いた直後に烈火の如く怒りを露わにした僕の上司の、まさに煮えたぎるような憤怒の表情が忘れられない。僕の上司は、その出自が、ニッポン的価値観のなかでの人種的マイノリティーであり、被支配的マイノリティとして規定されてしまっているがゆえの痛みの中で生き続けてきた人だった。

-------------------------------
■「使う側」の論理と「使われる側」の論理が違うことは当然のこと。だからこそ、教員や鉄道業従事者に限らず組合というものはあるのだし、交渉や議論の場がある

(じつは僕は、組合の運動というものがもっともっと活発な世の中であって欲しいと思っている。昨今よく見聞きすることだが、どうも各方面での”組合弱体化”は、結構深刻な事態に陥っているようだ…)

■そしてそれは、「自分の意図・計画に従わせたい者」と「それに従うようにさせられる者」というふうに関係を拡大すれば、たとえば開発者と地域住民との関係、また、政治実行者・統治者としての国家と市民との関係にもあてはまる。

■さらにさらに拡大することが許されるのならば、社会的立場における多数者と少数者との関係にもあてはまるし、はたまた、異なるイデオロギーや文化価値観をもつ集団(国家)間の勢力関係にも当てはめられよう。

■それぞれに存在と行動の論理が違うのは、あたりまえ。

■しかし、論理が違えば、そして、論理は違いながらも双方が同じ場に居続けることが求められるのならば、そこに何とかして妥協点を見つけ、何とかして双方がその場に居続けられるように、互いに汗をかきあうのが、やっぱり人の間のあるべき姿だと僕は思う。いくら”青臭い理想論だ”などと揶揄されようが。

(大地を耕し食を得る、とは、まさにヒトと大地とのあいだでのその営為に他ならない…などと、ついでに話を飛躍させてみたりして。笑)

■さて、では、いまの社会は、どうか。

■従わせたい者の言い分に従わない者は、ある固定化した分別基準のもとにパッキングされる。そして、従わせたい者は、そこに「自己責任」のラベルを大きくぺたりと貼りつけたら、「はいサヨナラ。あなたに退場を命じます」。

■そんなふうに、なってないだろうかなぁ。人の世が、そんな単純なものでいいはずがないと、思うのだけれどなぁ…。

■でも、中山氏の一件に限らず、またこの「帝王学青年」の件に限らず、たとえばネット上の「空気嫁。逝ってヨシ」とかいう常套句、またたとえば、いま現在東京都教育委員会で行われていることなどをみると、ああ…と溜息がでます。

■その溜息を、僕らは汗をかきつつ、ことばに換えていかないと。

| ぼやき | 10:25 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

ニュースとは…

■函館からの帰り道、いつものようにAMラジオNHK第一放送を聞いていた。「昼のニュース」だったか、いくつかの報道のあとに、こんな「ニュース」が飛び込んできた。

■さる「高貴」な家族の長女が、幼稚園生活最後の運動会を楽しんだと。その両親も、カメラを片手に娘の様子を楽しそうに見ていたと。ご丁寧なことにその「ニュース」は、長女が「白いシャツに紺のズボン、頭にはとんがり帽子をかぶ」っていたということまで、事細かに伝えていた。爽やかな秋空のもとで、楽しく運動会を楽しまれたのだと、ただそれだけの内容。

■これがNHKの「ニュース」である。公共放送が報道枠の時間を割いて市民に伝える「ニュース」である。

■果たして、NHKを視聴する市民のうちどれだけの人間がこのことを「ニュース」として知らされたいと願っているだろう。一体どれだけの人々が、この「ある一家の幸せな秋の一日」をNHKという公共放送機関に「報道」してもらいたいと願い、またそれを知る価値のある情報として受け止めているだろう。

■僕は、とことん、あきれてしまった。

■ところで、この「ニュース」を聞きながら僕はあることを想像していた。それは「ああ、たぶんNHK取材班は、”白いシャツに紺のズボン、とんがり帽子”のかわいい映像を、さぞかし上手に撮ることができたのだろうな…」ということだ。

■言い換えれば、もしもこの「高貴な一家の一日」にまつわる”映像素材”が一切無かったのなら、きっとこの「ニュース」がラジオで報道されることは無かったのだろうな、と思ったのだった。

■そう、いまや、時として「ニュース」が映像を生むのではなく、映像が「ニュース」の核をつくってしまうことがある。そんなときには、まずテレビニュースが映像に隷従させられ、ラジオニュースはそのテレビニュースに隷従させられる。ラジオニュースを聞いていると、その構図がとても良く分る。

■例の「ダンボール肉まん」はもちろんその構図の中にあるだろう。あれは本当に醜い事例だった。さらに、先ごろのミャンマーの長井さん死亡事件の初期報道にも、じつは、僕はその構造の影響をそこはかとなく感じていた。

■僕はそのどちらもまずラジオで報道に触れたのだが、そのときすでに、ごく初期段階であるはずの報道のうちに込められていたある種の異様な「熱」の存在に、少なからぬ違和感を感じていた。

■そして、あとでテレビを観ることで初めて、その不可思議な「熱」の正体が、じつは、いわゆる”衝撃的な映像”から発せられたものだったことに気付くのだった。

■いろいろな面で、市民は、今後より一層気をつけたほうがいいなと、AMラジオを聞きながら僕は考えている。この「隷属構図」の最下層におかれようとしている(おかれている)のは誰なのか、と。

■そうそう、「高貴なご家族の一日」のことだ。

■後にテレビで見たニュース映像には、まさしく”白シャツ・紺ズボン・とんがり帽子”でお遊戯を楽しむ少女と、それを夫婦仲むつまじく微笑みながら見守る両親の姿が、とても”良く”映し出されていた。

■やっぱり、だった…。

■テレビに映し出された、一切の不穏さも不安さも感じさせない、これでもかというくらいに幸せ感満々の映像を見ながら、僕は、どうにも、苦笑いをするしかなかった。

| ぼやき | 22:41 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

選挙結果

地元北海道の知事選よりも気になって仕方なかった東京都知事選。石原氏に当確が出た。

これを都民が選んだという事だ。多くは語るまい。

しかし、と思う。

僕は常々、「国」なんていう仮想単位で物を考えることを極力避けたいと思っているのだけれど、今ばかりは、「この国」がどうなってゆくのかについて、かなり危機感を覚えている。

東京オリンピックがどうこう、築地の移転先がどうのこうのという問題ではない。

はっきり言ってしまうと、こういう結果を出してしまう「背景」がこの国の首都に厳然と横たわっているという事実が、個人的に、生理的に、なんとも言えずキモチワルイ。

| ぼやき | 21:32 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

また、NHKニュースに思う

またしてもNHKのことでぼやく。

さっきの「ニュース7」。冒頭から「堀江裁判有罪判決」の報道。じつに長々と。確かに時代を象徴するようなニュースだから、それだけたっぷり時間を割きたいのだろうが、しかし、長すぎる。「長いか短いか」は主観の問題だけれど、でもそれにしたって長すぎるように思えた。

この報道が不特定多数の視聴者にとってそれほどまでにニュース価値をもっているとはどうしても思えないのだが…。単なる「興味本位」以外でこのニュースを見ているヒトって、いったいどれくらいいるのだろう…?ま、これも主観の問題だから僕がここでとやかく言っても仕方ないけれど。

そもそもライブドアに関係することがこれだけ世間の関心を集めるようになったのは、NHKを含めた「マスコミ」が、悪い言い方だが、思慮分別なくやたらと堀江氏をちやほやと持ち上げてみせ「アイドル化」したからこそともいえる。実際、堀江氏も、マスコミ使いがうまかった。マスコミはそれに何かしらの「旨み」を見出し、まんまと堀江氏の戦略に乗ったのだと僕は思っている。

しかし今回、(本当に旨みを味わったかは別にして)そのちやほやした対象がこうして有罪判決を受けることとなった。このことに関して、マスコミは、自らの姿勢を省みる必要は全くないのだろうか。どうも今日の「ホリエモン有罪」報道をみていると、報道する側が拠って発つ報道発想の根っこはやはり「ちやほや」レベルのものだとしか感じられず、自らの報道のあり方を真摯に省みているとは言いがたいように思えるのだが、これはうがった見方に過ぎるだろうか。

堀江有罪に続いていくつかニュースがあった。日中外交に関わる報道や原発問題など、少なくとも「テーマ」としては堀江報道以上に、不特定多数の国民にとって関係がありそうな内容なのだが、時間はごく短い。

極めつけだったのは、横須賀基地に配備される米軍原子力空母に関わる協定締結に関する報道だ。これも時間はごく短かった。確かに、それほど長々と時間をさくべき内容ではなかったとは思う。しかし「テーマ」自体に関していえば、日米間関係・アジア外交・中東和平・日本の防衛、一方で環境問題や地方自治問題まで関わる大きな事柄だ。

そのニュースの扱い方が、時間の長短以前に、あまりにもおざなりなのだ。

始めのうちは無音の映像にニュース原稿を読むナレーションが重なる形で進んでいたのだが、中盤、突如映像自体の音がオンになり、ナレーションにかぶさってしまった。内容は不明瞭で聞き取れない。で、ナレーションは原稿を読むのを途中でパタリとやめてしまった。まだ内容を全部読み終えていないのに。

映像が終わってからお詫びと補足のコメントがあるのだろうと思い、最後まで見ていた。一連のニュース映像が終わり、スタジオのメインキャスターに映像が切り替わった。すると、キャスターは、放送の不手際をわびるのでもなく、尻切れトンボだったニュース原稿の続きを読むのでもなく、にこやかに微笑みながらこういうのだった。

「では、次は大相撲です」。

これを、何かおかしい!と思うのは、僕だけなのだろうか…。こういうことを、どうかしている!と思う僕の方が異常なのだろうか…。ときどきとても不安に駆られる。

| ぼやき | 20:50 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

| ページ選択 | 次へ


bar.gif
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。