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2007年02月 | 月別の日記 | 2007年04月

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次女の指しゃぶりに思う

札幌から帰宅した。5日ぶりの我が家だ。

札幌から山中の峠道を越えて自宅へ至る約4時間のドライブは、度々この日記にも書くのだが、僕にとっては掛け替えのない内省の時間となっている。

札幌という都市での仕事を終え、四季折々の山の中の風景を見ながら、曲がりくねった山道を越えて、田舎の我が家へと帰る。

そこにおいてもたらされるたっぷりとした思索の為の時間という物理的事実もさることながら、この「いつもの通い道」が持つ象徴的な意味合いもまた、僕にとっては重要だ。

今回も、東京での仕事の事など、ここ数日間のことなどをあれこれ反芻しながら、峠道を、右に曲がり、左に曲がり、上り、下りしながら、平らかな十勝の我が家に帰って来た。

19:00過ぎに家に着き、あれこれ片付けをしてから、家族とともに少し遅めの夕食を取る。長女は食事が大変ゆっくりなので、皆が食べ終わった頃にはすでに21時近くになってしまった。もう寝る時間だ。

おや、生後3ヶ月の次女がグズりだした。オムツはかえたばかりだ。おっぱいだって、ついさっき飲んだばかりなのにな…。腕に抱きかかえて、しばらく様子を見る。次女は顔を真っ赤にしてびーびーと泣いている。うむ、これはたぶん、眠いのだ。

僕は、あえて彼女をあやさずに、腕に抱えたまま、泣くがままに任せてみた。すると彼女は、しばらく泣きながら手足をジタバタと動かしたあと、おもむろに自分の右手の親指をあむっと口にくわえ込み、ちゅっちゅと音をたてて吸い始めた。そう、彼女は最近、指しゃぶりを覚えたのだ。

とたんに、さっきまでの怒りと嘆きに任せた険しい形相が嘘のように消えてゆく。彼女の顔はすっかり平静を取り戻し、無心でくちゅくちゅと己の指を吸いながら、静かな瞳でじっと天井を見上げている。

それを見て、僕はつくづく感慨にふける。すごいものだな。

だって、彼女はついこの間まで、自分の欲求や不満、不都合の一切を、他者の助けを借りなければ何一つ解消する事が出来なかったのだ。

しかし、3ヶ月と少しの時間を生きた末に、この赤子は、自分のうちに沸きあがる生理的・本能的な感情や衝動を、自らの指一本で見事なまでに納めることができるようになったのだ。誰にその方法を教えられるでもなく、誰にそうすることを強いられるでもなく。

指しゃぶり。遅かれ早かれ、ほとんどの赤ちゃんが身につける、いわば当たり前の行動。とりたてて騒ぐようなことではないのかもしれない。でも、だからといってそれを侮ってはいけないだろう。自分の親指を母の乳首に見立てたこの代償行為のうちには、ヒトがヒトとしてあるために欠くべからざる重要な成長の証が秘められているように僕には思えてならない。

赤子は、親指からは決して乳が出ないと知りながら、その親指を吸う。それが母の乳首ではないのだと承知の上で、親指を吸う。そうすることで、自分のうちにどうしようもなく湧き上がってしまう衝動を自分の責任において受け止め、不本意ながらも納得し、それによって心と身体の平静、自我と他者との間の均衡を獲得する。

満たされぬ欲求とどう折り合いをつけながら自分自身を生きるのか、その方法を見つけ出すこと。しかも、自分の責任において。僕は、ヒトの自立の立脚点の一つは、それを学ぶことにあるだろうと思っている。この指しゃぶりという当たり前の行動は、まさにヒトの自立への確実な一歩といえるのではないかと思う。

また、自己の内発衝動の抑制という意味では、ひいては芸術行動にさえも関わる事柄だ。じつは、僕が写真を撮る事だって、本質的には指しゃぶりとなんら変わる事がないかもしれない。

たかが指しゃぶり、されど指しゃぶり。

(あふれ出る自分の欲をコントロールできずに軋轢ばかりを生み、挙句の果てに、流さないでいいはずの涙や血を流せしめる我ら「大人」たちの体たらくを思う。また、自分の親指を捨て、他者の親指にばかりすがりつきたがる我ら「大人」たちの情けなさ。特にいま、大人社会では盛んに、その「公共の親指」に「象徴としての父性」を帯びさせて、さもしゃぶり甲斐があるかのように、それを「美しい」などと言って虚飾を施したりたりする。そんなものにごまかされず、みな、まずは自分の親首を痛くなるくらいグッグッと吸ってみるべきだと思うのだが…。)

とまれ、いま僕は、我が子が確実に成長してゆくのを目の当たりにしている。ひと月前には、周囲の語りかけに微笑をかえすことで他者と交流をする術を見につけ、そして今度は、親指一本で自分を納得させる術まで身につけた。

彼女はいま、ヒトがヒトとして持つべき資質を一つずつ確実に、自分の身体と心を駆使しながら身につけている。なんと頼もしい事だろう。そして、ヒトが育つとは、なんと不思議なことなのだろう。僕は感動を覚えてしまう。

と、そんなややこしいことを考えている父の腕の中で、次女は、理屈を超えた安らかな表情を湛えながら、静かに目を閉じ、しまいにはすやすやと寝息を立て始めた。ちゅっちゅと音をもらしていた口元から親指がゆっくりと離れて、次女の短くやわらかな腕が、僕の胸のあたりにたらんと垂れた。

長女が近寄ってきて次女の寝顔をそっと覗き込む。しー、静かに。さぁさ、寝巻きに着替えて、おやすみの時間だね。あすもきっと嬉しくて楽しい朝がやって来るよ。
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| こども | 00:05 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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Tさんを偲ぶ会

今日29日は、札幌市旭ヶ丘の「ギャラリー門馬」で、一日だけの展示とスライド上映。昨年4月に亡くなった恩人Tさんの、一周忌を記念するイベントだった。

イベントといっても、Tさんと親しかった画家や写真家、音楽家らがそれぞれの作品をもちより、それを囲みながら、おなじくTさんと親しかった友人知人たちが茶話会で語らうという、とてもアットホームな雰囲気のものだった。

集まった20名弱の方々とともにTさんを偲んだ。

生前、経営していた喫茶店にたくさんの人を集わせ、そのひとりひとりの心をやさしく暖めてきたTさん。本当に稀有な存在の人だった。僕も本当に世話になり、たくさんの励ましをもらった。

いまTさんは、死してもなお変わらずにこうして人々を集わせ、暖める。でもそれだけに、いまここに肝心のTさん本人の姿が無いということがなんとも不思議に思える。そしてそのことが、心にまたTさんとの別離の悲しさをよみがえらせる。

以前の日記にも書いたのだが、僕はTさんに初めての作品集である『森のいのち』を直接見せることができなかった。Tさんの逝去に本の完成を間に合わせることが出来なかったのだ。

それは僕の中で大きな悔いとして残っている。しかし、悔やんでも仕方の無いことだとも分かっている。

僕はこれまでどおり、淡々と、森の写真を撮り続けるしかない。それがきっと、いまも別の世界から僕らの心を暖め続けているTさんの笑顔に報いる唯一の方法だと、僕は思っている。

| 写真 | 00:46 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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六本木で仕事

3日間、東京へ行っていた。で、ついさっき帰ってきた。それにしても喉が痛い。

北海道に居るあいだにどうやら風邪をひいたらしい。でも、これといってひどい症状は無かったので、安心して東京に出た。しかし、いざ東京に着いて、有明というところで行われていた写真業界の大きな催事に参加し、半端じゃない人ごみの中で半日を過ごしたら、とたんにのどの調子がおかしくなってしまった。

2日目には酷いがらがら声で、搾り出すような声しか出ない状態に。熱などはまるでなく、体調はすこぶるいいのだが、声だけは誰が聞いても重病人のそれだ。

困った。そしてつくづく、東京の空気というものが自分には合わないのだろうなぁと感じてしまった。もともとは関東の人間なのだけれど…。

さて、2日目の昨晩は、ある企業のテナントオープンイベントに作品が使われた縁で、初めて六本木というところへ行ってきた。都心再開発で今度オープンする「東京ミッドタウン」という巨大な商業複合施設がそのイベントの会場だ。

暗い夜空にそびえ立つ、きらびやかで贅沢な巨大ビル。中に入れば、各フロアに出店したテナントは名前も知らない高級ブランドばかり。そして、そこにひしめく人・人・人。ハイソでセレブレティーらしき様相の紳士淑女ばかりだ。

今回は東京ミッドタウン全体のプレオープンイベントということで、参加できるのは関係者とマスコミ、そして招待客だけらしい。エスカレータにのれば、TVで見たことのあるいわゆる「芸能人」が何人も僕の傍らを通り過ぎてゆく。

ああ、なんたる場違い…。

僕はものすごい違和感を覚えた。多分、仕事でなければ、たとえ冷やかし目的でも立ち寄らない場所だろうな――。

すれちがう麗しきレディーたちが振りまく香水の匂いにつつまれながら、僕は無性に帯広の、芽室の、最近少しずつ土のにおいを帯びはじめた野暮ったい田舎の空気を胸いっぱいに吸い込みたくなってしまった。夜も8時を過ぎれば通る人もまばらになる芽室駅前通りのそこはかとないうら寂しさが、なんだかとても愛しく思えてくる。

六本木という「いま」を象徴するようなこの場所に限らず、東京という大都会を肌で感じるたびに、僕はその余りの大きさ、そこに集う人や行き交う物・情報の多さと濃さに、いつも愕然とする。そして、その「大きさ」や「多さ」が孕む、甘美な誘惑に満ちたなんともいえぬ危うさに、僕は時折ぞっと背筋を寒くする。また同時に、その危うさに対峙している自分自身の小ささ、無力さを実感せずにはいられなくなる。

今回もまた、それを強く感じた。東京は、余りにも大きすぎる。

ただその一方で、今回の仕事で僕のことを見出し抜擢してくれた企画会社の責任者とゆっくり話をする中で、じつは、こういう場に違和感を感じるような人間だからこそできる何かがあるはずだ、ということに改めて気づかせてもらった。

「こうした東京型の都市開発の仕方は、もうこれでオシマイだろうと思っている。多分、こうしたやりかたは、すでに限界まできてしまっている」。

ニューヨークなど、海外の巨大都市における文化や商業のあり方をつぶさに見てきた彼が、六本木の夜景を眺めながら言ったこの言葉は、重たかった。都市的な営みの最前線を歩いてきた人でさえも、じつはいまの東京のあり方には少なからぬ危機感を覚えているのだ。

今回、彼と、彼のクライアントであるテナント主は「こうしたやりかた」の中心点ともいえるこの場所に、あるコンセプトに基づく空間を創出しようとした。そのコンセプトは「sanctuary」。「聖域」「保護区域」を意味する英語だ。そして、この概念の始まりを表現するために、彼らは「森」の写真を選んだ。

テナント主は、国内有数のブランドとして商業的な成功を収めてきた企業だ。六本木という現代東京の核心地で新たな展開を始めようというその彼らがいま見つめているのは、じつは「森」だったのだ。

企画の責任者は話の中で、クライアントであるこの企業の会長が「いろいろないのちが生まれ出てくる場所」という「森観」をもっていることを教えてくれた。そして、拙著『森のいのち』がオファーの直接の決め手になったということも明かしてくれた。また、僕の言う「森は単なる癒しの場ではなく、自分自身との対峙を否応無く迫られる、じつはとてもチャレンジングな場だ」という考えに共感を覚えてくれもした。

僕はとても嬉しかった。なにか、僕のこれまでの11年の歩みを全肯定してもらっているかのような錯覚に陥るくらい、しみじみと嬉しかった。

願わくは、こうした「森」の価値への再発見が、従来型の商業主義にまるまる飲み込まれるのでなく、東京という大都会のなかでしたたかに、だが確かに、じわりじわりと浸透していけばいいな、と思った。

賑わうビル中の喧騒にちょっと疲れを覚えたので、外に出て、敷地内に整備された広い庭園をのんびり歩いた。さわやかな夜風が吹き抜けて、ぼうっとした僕の身体と頭とを程よく冷やしてくれる。

園内には、きれいに刈りそろえられた芝生のなかに、イチョウやケヤキの樹が何本も植えられていた。遊歩道沿いの桜並木などは、樹齢や本数からいっても結構立派なものだ。花の頃は今、四分咲き程度といったところだろうか――。こうこうとライトアップされているのが少し痛々しい気はするが、しかし、暗い空に浮かび上がった薄紅の花は、風に揺れながら、なんともいえない清々しさを東京の夜に放っていた。

そうだ、考えてみればこの六本木という地名は、僕の大好きな「木」によって出来ているではないか。

単純な僕は、もうそれだけで「東京も案外捨てたものではないのかもしれないな」などと思ってしまうのだった。

| 仕事 | 01:13 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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帯広でスライド&トーク

たったいま、帯広で行われたスライドトークイベントから戻ってきた。40人近くの参加者があり、夜の会ということもあったので、参加者はほとんど大人。とてもしっとりとした雰囲気の、素敵な1時間40分でした。参加して下さった皆さん、有難うございます!

今回このイベントを企画してくれたのは、芽室町内のパン屋で働くAさん。ご自身も森を愛する人で、昨年「森のいのち」を読んで内容に共感を覚え、いつか小寺の話を聞く会を開けないものかと画策してくれていたそうです。こうして場を設けてくれる人の存在、本当にありがたいです。

じつは、十勝に住んでもう8年になるのですが、その中心地・帯広でスライド上映などのイベントをするのはこれが初めてでした。前回の日記にも書きましたが、神奈川や東京、札幌ではこれまでに何度もこうしたイベントをしていたにも関わらず、地元ではなぜかこうした形で公に姿をさらすことが無かったのです。

縁が無かった、といえばそれまでかもしれませんが、でも、これでようやく自分の地元で「地に足が着いた活動」ができたような気分です。一際嬉しいものです。

さて明日は、今夏芽室で開催される「北海道こどもの本のつどい芽室大会」の実行委員会。分科会など細かな内容を煮詰める大事な集まりです。こちらもいい会になるといいなぁ。

そして明後日からは、急遽東京に出ることに。東京ビッグサイトで開催中のPIE2007に展示中の自分の作品の確認に行くのと、26日に東京ミッドタウンのイベントで上映されるスライド上映作品を確認に行くのが用事。詳しくは17日の日記に。

それにしても、なぜ3月末の同じような時期に2箇所の「東京○ッ○"○○○」という会場で自分の作品が使われる事になったのか、何だか不思議。でも、嬉しいものです。

せっかく上京するので、世話になっている出版社に寄って、2冊目の相談もしてこよう。2冊目もがんばりまーす。お楽しみに!

| 仕事 | 22:42 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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卓話とスライド上映会

20日は昼過ぎから、地元芽室町の「芽室ロータリークラブ」の例会に招かれて「卓話」をしてきた。森のいのちの出版にまつわることや、写真家として、また一町民としていま考えている事など。

芽室町役場や町内金融機関、商店、企業の管理職や経営者のお歴々からなるロータリークラブ。フリーランス写真家などという不確かな身分の僕にとっては一番なじみが薄いところかもしれない…(笑)。

でも、地元であれこれと模索をしている若造の存在を知ってもらえたのは良かったのかもしれない。僕は地元での認知度がかなり低いので…。有り難い機会を頂戴した。

それが終わってから急いで準備をし、夕方、上士幌町糠平へ。翌21日は上士幌町ふれあいプラザで子供たちにスライド上映会を行う。

「森のようちえん」として、子供たちと一緒に森を楽しむ活動を続けているグループがあり、その会の世話役をやっている糠平の知人O氏と以前から「なにかやりたいね」と話を進めていたのだ。

今回は子育て基金の助成がとれたとのことで、なんと!前泊も付けてくれた。宿は中村屋。手作りの落ち着いた内装や、地元産品を使ったバリエーション豊富な料理など、なかなかいいお宿だ。我が町・芽室が誇る「日甜のオリゴ糖」が随所に登場するのが嬉しい。

21日当日は、親子合わせて20名ほどを前に、スライド上映。とても楽しいひと時でした。

それにしてもすごいと思うのは、子供たちの写真を見るときの集中力。僕のスライド上映では、まず始めは、解説などは何もせずに森の四季の風景写真を10分ほど観てもらうのですが、その間の子供たちの表情ときたら。ぐっと吸い付くようにスクリーンを見つめ、中には、微動だにしない子も。

大人になると、なにかと写真に対する「解説」が欲しくなり、「理屈」や「納得」を欲してしまうものですが、子供の無垢な鋭い視線は、それを超えた写真の奥深いところをじいーっと見つめてくれているように思えます。いまやすっかり「大人の眼」を身につけてしまった自分自身の写真との向き合い方に、少なからず反省を促されるのです。

さて、じつは今回の上映会には、我が妻と子らも参加しました。不思議な事に、地元でこうした講演や上映会をする事が本当に少なかったので(過去に2回だけ隣町でやりました)、娘やカミさんに本番を見せることはほとんどなかったのです。でもいざこうして改まって写真を見せるとなると、なんだか、少し緊張します。

で、実際のところどうだっかというと、スライド上映中に、ちょっと興奮気味の長女が頻繁に声をあげるので困りました…。

「それ、クルミ、クルミ!これはリスが食べたやつでねぇ…」と、ネタバレのオンパレード。しまいには、ばらすネタもなくなったのか、「おーい、オトーチャーン!」と直接呼びかけ戦法に出た。

うう…。なんとも冷や汗な一日でした。

| 仕事 | 11:32 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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講演と打ち合わせと物思う峠道

昨日、今日と札幌へ行ってきた。

昨日は夕方から、Tさんと会う。昨年春に亡くなったTさんのお連れ合いの「一周忌記念展示会&コンサート」の打ち合わせ。札幌市内のギャラリーで、Tさん夫妻に縁のある写真家、絵描き、音楽家が作品や演奏を持ち寄って、故人を偲ぶ。僕も写真を展示させてもらう事になった。

Tさん(亡くなった方)は生前、札幌で喫茶店をしていて、僕は本当に彼女の世話になった。何度も店で写真展を開いてもらった。しかし、初めての著作を彼女に見せることはできず、それは僕にとって大きな悔いとなっている。

できれば彼女が生きているうちに作品を見せたかった。最近の新作も、直に彼女に見せたかった。しかし、いまはどうあがいても彼女が再び目の前に現れる事は無い(夢の中以外では)。それはどうしようもない事だ。

でもせめて、彼女との思い出を共有できる人達との集いの場で、ひとりひとりが持ち寄る思い出によって紡ぎだされてくるTさん面影に向かい「お蔭様で、なんとか頑張っていますよ」と報告をしたいものだと思っている。

記念展示&コンサートは、3/29の一日限り。札幌市旭ヶ丘「ギャラリー門馬」。参加は自由。

さて今日は、朝から「冒険クラブ」という子供たちの団体の活動終了式にお呼ばれし、スライド上映講演をしてきた。普段から自然体験をたっぷりしている子供たちだけあって、森の動物の写真などにビンビンと反応が返ってきて、とっても楽しかった。

ただ、会場が広い体育館だったこと、また、子供たちの年齢が、下は3歳から上は小学3年生までと幅があったことをもう少し考慮して話の内容を絞るべきだった。雰囲気が少し散漫になってしまった感が否めない。反省。

午後は打ち合わせが2つ。

一つ目は、六本木に3/30グランドオープンする複合施設「東京ミッドタウン」のテナント「shu sanctuary」のオープニングイベントに提供する映像作品の引渡し。今回この企画のオファーをくれたプロダクションのH氏が東京から来てくれた。

まだ若い方なのだが、これまで手掛けられた仕事の内容などを伺うと、しっかり仕事をされる方だという印象。僕の作品をこのHPなどで見つけて連絡をくれたそうなのだが、こうした出会いをいただけるとは、ありがたいことだ。

東京ミッドタウン
http://www.tokyo-midtown.com/japanese/

shu sanctuary
http://www.shusanctuary.com/

華々しいオープニングセレモニーに自分の作品を使ってもらえるのは、大変光栄な事。この映像を用いたイベント演出を、僕の東京方面の知り合いにもぜひ見てもらいたいのだけれど、このオープニングイベントに参加できるのは招待客とメディアだけなのだ。残念…。

Hさんとの打ち合わせの後は、市内白石区で絵本読み聞かせや文庫活動をされているTさんのお宅へ。Tさんが主催する「絵本コミュニティKURABU」には、つい先週催された会の勉強会にお呼ばれしてスライド上映と「森のいのち」の話をしてきた。

今回の打ち合わせは、Tさんが進めている札幌市内の小学校での読み聞かせ活動の今後の展開を一緒に考えるというもの。Tさんと、今の教育現場や子供たちが置かれている状況などについて話しながら、「いまこそ、”自分で聴く力”、”読み取る力”を大切に育てたいですね」と意見が一致。本当にそうだ。戦争反対。

すっかり暗くなったので、Tさん宅を後にして、一路自宅へ。通いなれたいつもの峠道をドライブしながら、ぼんやりと、あれこれ考える。今の仕事のこと、今後の仕事のこと。特に、2冊目の本のこと。そして、やっぱり家族のこと。

どう生きるか、ということに関しては、写真家という生き方を選んだ時点から常に自分への問いかけを繰り返した。しかし、いまこそ特にそれを強く意識している。もっと肩の力を抜いて淡々としていればいいのだと頭では思いながらも、いや、そうもいっていられないのだ、と言う自分もいる。

雪降りしきる峠道で、いつもより10km/hおそいスピードで車を走らせながら、いろいろと考えた。

そう、僕の車はそもそもが非力な軽自動車だから、札幌のからの帰路はいつも、たっぷりものを考える時間がある。こんなときにはつくづく、遅い車に乗るというのはなかなかいいものだな、と思う。そして、そんなことも含めて、生き方というものを考えて見たりする。

こうして3月半ばにしんしんと雪の降る北海道に住んでいる事とか、十勝という田舎に住んでいることとか、ちっとももうからない仕事を選んでしまったこととか、そういえば大きな組織というものから久しく遠ざかっているなぁ、なんてこととか――。そんなよしなし事をあれこれ考えていたら、いつのまにか、すっかり峠を下りきってしまっていた。

自宅に着いてみると、娘達は当然ながら布団の中で寝息を立てていた。居間の机の上には、長女が今日作ったという紙粘土人形がころりと転がっていた。長女の大好きなピンク色で塗られた、にっこり微笑む動物の像。

この長い耳は、どうやらウサギのつもりだな…。なかなか可愛く作れたじゃないか、と思わず笑みがこぼれる。でもそれといっしょに、なんだか胸がきゅーっと切なくなってしまい、困った。

| 仕事 | 23:57 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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また、NHKニュースに思う

またしてもNHKのことでぼやく。

さっきの「ニュース7」。冒頭から「堀江裁判有罪判決」の報道。じつに長々と。確かに時代を象徴するようなニュースだから、それだけたっぷり時間を割きたいのだろうが、しかし、長すぎる。「長いか短いか」は主観の問題だけれど、でもそれにしたって長すぎるように思えた。

この報道が不特定多数の視聴者にとってそれほどまでにニュース価値をもっているとはどうしても思えないのだが…。単なる「興味本位」以外でこのニュースを見ているヒトって、いったいどれくらいいるのだろう…?ま、これも主観の問題だから僕がここでとやかく言っても仕方ないけれど。

そもそもライブドアに関係することがこれだけ世間の関心を集めるようになったのは、NHKを含めた「マスコミ」が、悪い言い方だが、思慮分別なくやたらと堀江氏をちやほやと持ち上げてみせ「アイドル化」したからこそともいえる。実際、堀江氏も、マスコミ使いがうまかった。マスコミはそれに何かしらの「旨み」を見出し、まんまと堀江氏の戦略に乗ったのだと僕は思っている。

しかし今回、(本当に旨みを味わったかは別にして)そのちやほやした対象がこうして有罪判決を受けることとなった。このことに関して、マスコミは、自らの姿勢を省みる必要は全くないのだろうか。どうも今日の「ホリエモン有罪」報道をみていると、報道する側が拠って発つ報道発想の根っこはやはり「ちやほや」レベルのものだとしか感じられず、自らの報道のあり方を真摯に省みているとは言いがたいように思えるのだが、これはうがった見方に過ぎるだろうか。

堀江有罪に続いていくつかニュースがあった。日中外交に関わる報道や原発問題など、少なくとも「テーマ」としては堀江報道以上に、不特定多数の国民にとって関係がありそうな内容なのだが、時間はごく短い。

極めつけだったのは、横須賀基地に配備される米軍原子力空母に関わる協定締結に関する報道だ。これも時間はごく短かった。確かに、それほど長々と時間をさくべき内容ではなかったとは思う。しかし「テーマ」自体に関していえば、日米間関係・アジア外交・中東和平・日本の防衛、一方で環境問題や地方自治問題まで関わる大きな事柄だ。

そのニュースの扱い方が、時間の長短以前に、あまりにもおざなりなのだ。

始めのうちは無音の映像にニュース原稿を読むナレーションが重なる形で進んでいたのだが、中盤、突如映像自体の音がオンになり、ナレーションにかぶさってしまった。内容は不明瞭で聞き取れない。で、ナレーションは原稿を読むのを途中でパタリとやめてしまった。まだ内容を全部読み終えていないのに。

映像が終わってからお詫びと補足のコメントがあるのだろうと思い、最後まで見ていた。一連のニュース映像が終わり、スタジオのメインキャスターに映像が切り替わった。すると、キャスターは、放送の不手際をわびるのでもなく、尻切れトンボだったニュース原稿の続きを読むのでもなく、にこやかに微笑みながらこういうのだった。

「では、次は大相撲です」。

これを、何かおかしい!と思うのは、僕だけなのだろうか…。こういうことを、どうかしている!と思う僕の方が異常なのだろうか…。ときどきとても不安に駆られる。

| ぼやき | 20:50 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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教育委員会/次女のツボ

今日は朝から町の教育委員会で打ち合わせ。僕が言い出しっぺになった講演会企画の予算折衝。うまく予算がつけてもらえそうで、ホッと一安心。6月に向けて、動き出した。

自分自身の仕事がこんなに忙しいときにわざわざ他人様を呼んで講演会をやろうというのは、外野から見ればアホの極みのように見えるかもしれないが、ま、やりたいのだからしょうがない。

僕のような自由業だからこそできることが、きっとある。そして、僕は、僕と僕の家族がこれからもずっと住んでいくだろうこの町で、この町の人たちと、手作りで何かしたいのだ。

さて、一日の終わりに、風呂に入った。家族4人で。といっても、狭い風呂なので、順番に入れ替わり立ち代り入る。

その順番は、こうだ。

僕が一番先に入って自分の身体を洗い、長女を迎え、洗う。で、その後に今度は次女を迎えて洗う。で、カミさんが入って身体を洗っている間に長女・次女と一緒に風呂にゆっくりつかる。で、僕が一番先に出て、次女を迎えて着替えさせる。風呂好きな長女はカミさんとゆっくり風呂に入る。こんな感じだ。どこのうちでもだいたいこんな風に入っているのかな?

風呂からあがると、少しのあいだ、次女と二人だけになる。僕はねまきを着せる前に、次女の全身のマッサージをしてやる。「赤ちゃんマッサージ」というやつだ。

胸から腕へ、なでなで。腿から足先へ、もみもみ。で、ひっくり返して背中も、なでなで。

生後3ヶ月に満たない赤ちゃんのぷりんとした肌に触れていると、なんだか、マッサージをしているこちらの方が気持ち良くなってしまう。不思議なものだ。赤ちゃんは、やはり魔法の存在だ。

で、今日は次女のツボを発見。彼女、足裏マッサージが特に好きなよう。手で両の足先を一つずつ包むように握り、交互にくっくっくっとリズミカルにもんであげると、ジタバタするのをやめて、うっとりしたような表情で「あう、あ、あわ、うー」とおしゃべりをする。きっと気持ちがいいのだろう。

それとも、足裏への刺激が、やがて来るべき2足歩行へ情動をも刺激して、ヒトとしての本能的な歓喜の声が無意識にあがるのだろうか――。

なーんて、めんどくさい事を考えるまでもなく、とにかく、ああー、めんこい。

しかし!あまりに気持ち良くなりすぎたのか、気付いたらシッコを垂れていた…。で、もういちどお風呂場へ直行。

長女とカミさんに笑われて、きょとんとした顔の次女。それにしても、ああ、めんこい。戦争反対。

| 暮らし | 22:30 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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PIE2007にて作品展示

来る3/22~25に東京ビックサイト(東京都有明)で行われるアジア最大の写真関連イベント「フォトイメージングエキスポ2007」において、小寺卓矢作品3点が三菱製紙企業ブースにて展示されます。3月新発売のインクジェット用紙「月光」シリーズ(販売:ピクトリコ)のデモに作品が使われます。

いま、そのプリント作業の真っ最中。デジタル作業ですが。

僕にとって超久々のモノクロプリントです(8年ぶりくらい…)。しかも、いつも撮っている木々や自然物ではない人工物が被写体になった写真も有り!これは珍しい。必見です。なーんて。今回は新商品デモのための展示なので、純粋に「小寺の作品です!」という感じの展示ではないのですが、お近くの方はぜひ足を運んで、会場でプリントを見つけてください。

じつはその昔、本気で「モノクロファインプリントで作品作りをしていく作家になろう!」と考え、台所暗室で昼夜を問わず試行錯誤を繰り返していました。しかし、いろいろ思うところがあり、カラーに移行。それ以降は、一度だけ外注でモノクロプリントを作った事はありましたが、暗室作業とは縁遠い日々を送っていました。

今回はデジタル処理のインクジェット出力なので、もちろん「明るい暗室」作業。当時の、酢酸のにおいが充満した、文字通り真っ暗な部屋で(僕は35mmフィルム現像時にも、停止と定着をリールタンクではなくフィルム剥き出しのビーカー内でやっていたので、絶対暗室にしていました)、薬品まみれになりながら黙々と作業していたのが懐かしい…。隔日の感あり、です。

アナログ処理とデジタル処理では、やはり仕上がる画像の質感は異なります。しかし、異なるからといって、一昔前のように「デジタルの画質では、作品としてお話にならない」というレベルはとっくにクリアしています。あとは、どうこの処理の特色を自分の「表現」に近づけ、活かしていくかでしょう。写真の可能性がいま、とても広がっている事を感じます。

なお、PIE2007中、25日13:00からの講演「野鳥を知る楽しみ」(講師:大橋弘一氏)で使用される予定のスライドショー映像は小寺が編集したものが使われる予定。

| 写真 | 07:33 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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函館・大沼・八雲・札幌

ただいま出張中。6日から10日まで。主に「森のいのち」スライド上映会。

6日は函館中央図書館で。動物の写真などにこどもたちがとても良く反応してくれて楽しい上映会でした!こういうのが、いい。

しかも今回のイベントには、僕の高校の同窓生で、いま函館在住のUさんが、忙しいさなか駆けつけてくれました!在学中は話したこともない間柄だったのですが、昨年某SNSで知り合いました。そんな旧友?にこの北海道で、しかも「仕事」の現場を見られるなんて、なんだか気恥ずかしい…。でも、とても嬉しかったのです。

7日は函館の隣、七飯町大沼の「キッチンWALD」で上映会。昨日とは一転、大人の方々がほとんどを占める、人数規模も小さな上映会でした。でも、会場がカナディアンな木造建築で、外は新進と降りしきる雪夜で、とても雰囲気がよく、こういうのも、僕は大好き。大雪の中を駆けつけてくださった方々と、上映後おそくまで語り合い、それもまたとっても楽しいひと時でした。

ところで、6日、7日と、宿泊は大沼在住のIさんのお宅でお世話になりました。Iさんとは、以前十勝の同じ町に同時期に住んでいたことがあり、そのときからお互いに名前はたびたび聞いていたのだけれど、実際に会ったのはわずか1度だけという間柄。昨年、数年ぶりに札幌で偶然再会したのをきっかけに連絡を取り合うようになりました。

今回の道南ツアー前半戦のコーディネートは全てIさんが快く引き受けてくれ、そのお陰で、函館と大沼でのイベントは大成功。そして、Iさんが紹介してくれたたくさんの地元の素敵な方々との交流もこれを機に始まり、今後もまた道南の人々と楽しいことをしてゆけそうです。ありがたい限りです。

ほんと、僕のような「個人プレー」をしている人間にとっては、何より有り難いのは、互いを理解しあえる人との繋がりであり、そうした繋がりを生み出してくれる「場」と「人」の存在です。表現者や物を作る人間ばかりが何人もいたって、だめなのです。それらを繋ぐ人がいないと。Iさんは僕まさにそういう人。

さて、翌8日は八雲町の幼稚園主催の上映&講演会。対象は保護者。でも、急遽、園児にも写真を見せたいということになり、こどもたちもたくさん参加。森の風景の写真を見ながら「きれーい!」とか「あ、キノコー!」と、かわいらしい声が飛んでいました。おじさんもたのしかったよー!

その後、洞爺湖の知人を訪ねて寄り道。自然に関わる仕事をしている彼と、環境教育や自然体験事業のことなど、小一時間も話し込んでしまいました。で、その後、中山峠を越えて夕方札幌着。

今日9日は、こどもの本に関係するある団体のお招きを受け、スライド上映と「森のいのち」にまつわる講演をしてきました。とても盛況。

今回は絵本に関心のある方々の「勉強会」という設定だったので、「森のいのち」製作時のエピソードやこの本に込めた思いやなどをたっぷり語る内容でした。しかし途中、「小さないのち」のことを話し始めたら、つい熱くなり、話が脱線。またしても「戦争大嫌い」の話に。

この話題はどうしても政治のことに絡むので、今回のように、ある目的があって招かれた公の場では、そういう発言は控えたほうがいいのかな、などと思ったりします。でも、子ども達のがどう生きるのか、ということに対する考えを共有しようという場においては、こうしたことはむしろ黙ってなどいられません。現に、遠慮して口を閉ざしていられるような状況でもありませんからね…。

で、昼をはさんで、午後はひと時、皆さんと交流会。こどもの本についての情報や意見を交換し、とても楽しく過ごしました。

そのあと、会の方々数名と一緒に、札幌市内の某学校に行き、校長・教頭・主任の先生と面談。この会では絵本作家を小学校などに「派遣」して講演やワークショップを学校に斡旋するような活動もしているのですが、来年度のこの学校の総合学習の講師に僕を推薦してくれるということで、その初顔合わせに伺いました。10月くらいにここの学校の生徒たちと楽しい講演&ワークショップができそうです!

その打ち合わせのあとは、市内で行われた某劇団の公演の舞台撮影。いつも新作が上演されるたびに撮影を依頼されている劇団です。今回は、会場のライティングが弱くてかなり撮影はきつい状態でした。うーん、なかなか難しいものです。

さて、明日は同じ劇団のもう一つの公演を撮影して、そのまま自宅へ帰ります。ああ、早く帰って、娘たちをだっこしたーい!

| 仕事 | 00:00 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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ホラー映画を観る

昨日、久々に一級品の「ホラー映画」を観た。ぞぞぞっと背筋が寒くなる映画だ。内容は「機械化人間にひたひたと侵略されてゆく我ら人間社会の運命やいかに?!」というもの。

いや、冗談はこの辺にして、その映画のことをちゃんと紹介しよう。それは「君が代不起立」という真面目なドキュメンタリー映画。東京都の公立学校でいま現実に起こっている、君が代不起立・不斉唱の教師達に対する行政処分の内情を伝える記録映画だ。

「君が代不起立」
製作:ビデオプレス/2006年12月制作/87分
公式サイト:http://vpress.la.coocan.jp/kimi.html

細かな内容はここには書かない。ただ、ドキュメンタリー映画だからといって「敷居が高く感じる」内容ではない。足を運ぶことを堅苦しく考える必要は一切無く、専門知識や予備知識が無くても、充分内容を理解できる(ちゃんと観よう、理解しようという思いさえあれば)。

興味のある方はWEBで検索してください。いや、ぜひ検索をしていただき、機会があればこの映画を観ることをお勧めします。特に、東京都に住んでいる方で、これから東京都教育委員会の管理の元で運営される学校に我が子を託そうとおもっている親御さん・保護者のみなさんは。「ホラー映画」というのは冗談だが、しかし、ぞぞぞっとすることは多分間違いないと思う。

ついでに、「そんなの、自分には関係ないや!」と言う人にも、本当に関係がないことなのかを知る為にも、機会があるならば、観る事をお勧めします。

君が代が国歌として相応しいか、とか、それを入学式・卒業式で歌わせるのことの意義は、とか、そういったこと(これはこれで至って重要な問いなのだけれど…)の以前に、如何に今の教育現場が硬直化しているか、またその中で「意思を持ったヒトの存在が組織やその仕組みに吸収され、挙句、抹殺されてゆくのか」といったことが、実にリアルに見えてくる。

映画の中に希望が無いわけではない。登場人物たちの行動や語る一言ひとことには、「人が人として生きるということに対して、希望を失ってはいけないんだ、失望することはないんだ」という思いを強められる。しかし、それだけになおさら、映画が伝える「現状」の冷たさには、背筋が寒くなる。

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やはり、内容についても触れておこう。

登場人物(不起立で処分を受けた教師)の言葉を紹介する。

複数回目の不起立をすることに決意したものの、累積する処分の重さに悩みを覚えていたある教師が、結局は、その年の卒業式では「会場外の巡回警備をせよ」との職務命令を受ける。それは、式の「君が代斉唱」の場に居合わせなくても良い、つまり起立か不起立かの判断を責を問われくても済むということでもあり、また一方では、会場に立ち入り、卒業式に立ち会うことは許されないということでもある。

それを受けた教員の一言。

「正直、ほっとしたというのはあります。(処分がさらに重くなって減給になり、家計の面でも)妻にこれ以上迷惑は掛けられないと悩んでいましたから。でも、揺れ動く心で見ると、会場に入ってはいけないという命令は、悔しいですね。」

そうなのだ。「揺れ動く心」。

ひとの心は揺れ動く。これが、人が人らしく生きる、ということなのではないか。「教育」とは、その揺れる心をどう自分なりに抑制し、自らの手で人生の方向性を決めてゆくか、その「自己決定」のサポートをするための場が「教育現場」ではないのか。

子どもだろうが大人だろうが、みな揺れ動く心をもっているからこそ「人間」なのではないか。しかし、そうした揺れる心はいま、東京都政の前では否定され、丸め込まれ、切り刻まれ、一つの価値観のなかに放り込まれてしまう。子どもも、大人も。

処分を受けた教員やその支援者が、やるかたない思いを抱えながら都の教育委員会に出向いて自分達の意見を陳べるシーンが何度も映画中に出てくる。しかし、自分の思いを率直に目を見て伝えようとする彼らに対して、それと対峙する都職員達のなんともいえぬ「無表情」。目をそらし、手を前に組んで直立したまま、一言も発せず。機械的な対応。

彼らとて、きっと心の内では「揺れ動く心」が日々葛藤を繰り返しているのだろう。しかし、組織の中では、それを表に出す事は許されない。多分、それを出さないでいられるようになった人たちこそが晴れて「役場」という組織の一員となれる仕組みになっているのだろう。少なくとも映像に映し出された彼らの表情からは、そんなことを思わずにいられなかった。

「揺れ動く心」をぐいっと抑圧した彼らの無表情をみていると、僕は心底、ぞっとする。これが教育に携わる人間の顔なのか、と。いったい何の為の組織であり、なんのための「教育」なのかと。

| 映画 | 11:35 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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加藤多一・森にいます

北海道新聞朝刊の生活面には、毎週土曜日に掲載される「親子で楽しむ・北の童話」というコーナーがある。道内縁の作家による短編童話が8週に渡り連載される。

いま連載中なのは「森にいます」。加藤多一著。今日で4回目。で、この連載が、良い。

北の森で暮らすポンコというどさんこ馬と、ポンコをとりまく木々や動物、森羅万象とのささやかな交流を淡々と描いたおはなしだ。余分な飾りの無いすっきりとした文体と優しい言葉で綴られた、誰もが読める児童文学だ。

しかし、毎回僕はこれを読むたびに、その淡々とした物語の中で、なにかこう、ヒリヒリと胸を炙るられるような、背中をピシャリと打たるような、曰く言い難い感覚・感慨を覚える。というのも、加藤氏の放つ言葉が、随所で、えらく「切れる」のだ。

それは言葉の一語一語や物語エピソードの裏に込められた作者の「批判精神」の切れの良さゆえに他ならない(そこには多分に自己批判が含まれているように感じられる)。

この物語の舞台となりまた作者自身が在住する「北海道」と呼ばれる土地が本来一体どういう土地であるのか。ヒトという生き物がどういうものであるのか。歴史というものがどういうものであるのか。そして、この現代がどういう時代であり、また、現代に生きるという事がどういうことなのか。

それらに向けられる作者の鋭い視線と思いが、平易ながらもじつに切れ味の良い言葉として、スパン!スパン!と物語の随所に織り込まれている。

このコーナーの「親子で楽しむ…」というタイトルは、伊達ではない。子どものみならず、親にとっても、大層読み応えがある。いや、むしろ、楽しんだ先のことをこそグッと考えてしまうような、濃密な味わいのある作品であると思う。

僕はこの連載を毎回楽しみにしているが、この4回の間、一度たりともその期待を裏切られた事が無い。18×50L程度の短い物語のどこかで必ず、加藤氏の放つ言葉が僕の胸をツンと突く。

「やっぱり、水は強い。」

今回は、この言葉にやられた。そこには、72歳の作者の、現代に対する冷厳な眼差しだけでなく、未来への希望が託されているように思えた。そして、この言葉に身をもって応えねばならない僕ら若い世代の責任のようなものすら、感じてしまった。

道新購読者には、ぜひ読まれることをお勧めしたい。

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原稿と熊楠

いま頼まれ原稿を書いている。そのうち一つは400字×10枚の結構な内容だ。なかなかまとまらずに困っている。

しかし、先日読んだ「鶴見和子×中村桂子対談」と、それに誘発されて読み進めつつある「南方熊楠(鶴見和子著)」が、大いなるヒントを与えてくれている。

それにしても、「熊楠」とは贅沢な名前だ。カミさまを2つも頂いてしまったような名だ。それだけに、この類まれなる人物の頭の中を覗く事は、なにかとても意義深い事のように思われる。読み進めるのがたのしみだ。

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2007年02月 | 月別の日記 | 2007年04月


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