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2007年06月 | 月別の日記 | 2007年08月

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北海道子どもの本のつどい、終わる

■この半年間準備を進めてきた「北海道子どもの本のつどい・芽室大会」が、昨日・今日の日程を全て終え、無事終了した。全道の児童書関係者を我が町に迎えて催した大会。

■この町で催せて本当によかった、が実感。細かく書きたいことは胸の内にいろいろある。ここに書くべきことも、たぶん、いろいろある。

■でも今は、心地良い疲れと、打ち上げのビールの酔いとで、まともな言葉が紡げそうになりので、書かない。いや、ほんとは、こういう朦朧状態で発することばのほうがむしろ我が心根に近いかも、と思うし、それゆえに、書くべきかも、とも思うのだけれど…。

■一つだけ、書こう。

■僕が担当した分科会。「写真絵本を作ろう・子供ワークショップ」。24名の小学生、サポート役の中学生9名と共に、デジカメ片手に町内の森を歩き、各自の感性で撮影取材をし、最後は、各々が写真絵本として「作品」をつくった。

■この分科会が素晴らしかった。すくなくとも、僕にとっては。

■改めて思わされた。「’おとな’然とした心や眼で、子供を軽軽しく過小評価すべきではない、軽んじるべきではない」と。もちろんこれは自戒の念だ。

■奴ら、やっぱりというべきか、おそろしい存在だ。ひょひょいと軽やかに、しかし、どどーんと重たい写真を撮りやがる。そう、上手いか下手かとういう以前の問題として。

■作曲家の故・武満徹が駆け出しのころ、著名な音楽評論家から「武満作品は”音楽以前”である」と超酷評されたことが、後には逆に武満徹の音楽の本質を突く「最高の評価」に成り得てしまう、というような、そんな感覚に近い。

■そうした至福の体験を、先日の函館でのワークショップに引き続き、またも味あわせてもらった今日だっただけに、今はもう、選挙の結果など、もうど~うでも良くなっている自分がいる。

■安倍政権がどうなるのかは、今、確かに大事は大事だか、事の意味の濃さを比較すれば、選挙結果など、ああ、そうなの、なるようになればいいんでない?というレベルのものだ。

■政治などというものは、今日僕が味わわせてもらった実感の上にたつものなどではなく、むしろこの実感のなかにこそ、政治を含めた理(ことわり)至上のちっぽけな世界観が抱合されているのだろうな、とさえ思える。ちょっと大袈裟だけれど。

■そう、つまりは、僕にとって、いい一日だった。

■そしてそのダメ押しとして、いまさっき、パソコンに向かう僕の背後で、娘が口にしたささやかな独り言の如きつぶやき声が、このオトーチャンの一日を最高のものに仕上げてくれた。

「明日、天気になるといいねー」

■こういうことばを、日常のなかで何気なく聞くことができることの意味を、僕はちゃんと受け止め、考え、これからも大切に温めていこうと思う。

■ほんとだね。天気になるといいよね。なるよ、きっと。

■さて、明日から山梨~神奈川~近畿へと、旅の空の下だ。アフガンの事も、改めて日記に書かなきゃならんが、うーん、しばらくはだめだな…。

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と、書き終えてから、気付く。

僕の考えは能天気なすぎるな…。そう、選挙結果のこと。今回の結果は、けっして軽くはない。

これまでの政治体制ゆえに過酷な抑圧を受けている人にとっては、僕の今日の日記の発言は、暴言に近いだろうな…。

沖縄の今日を思え。在日外国人たちの今日を思え。イラクの、アフガンの子供たちの今日を思え。広島・長崎の人たちの今日を思え。東京都の公立学校に通う子供たちの今日を思え。旧日本軍「慰安婦」たち、中国残留孤児たちの「あの日」と、「これからの日々」を思え。そして、近かりし未来のイランのこどもたちの、決して来るべきではない「その日」のことを思え。

それらの人に思いを寄せられぬ自分のすがたに、いま、この日記を書いていて改めて気付いた。視野が狭いな…。
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| 写真 | 22:31 | コメント(-) | trackbacks(1) | 先頭へ↑

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選定

sawa.jpg

■お蔭様で「森のいのち」はいろんな図書選定を受けています。とても嬉しく、そして、有り難い限りです。

■そのうち、夏休み感想文の北海道指定図書、長野県推薦図書に関しては、出版社から僕の方へ内定段階で事前に連絡があったのですが、なかにはそうでないものも。

■「厚生労働省推薦・児童福祉文化財」と「北海道青少年のための200冊」。この二つは、じつは、自分でネット検索をしていて偶然見つけました。僕の知らないあいだに決まっていたようです。今日ようやくこのサイトにも最新情報としてアップしました。

■しかし、この本が厚労省推薦の「文化財」ですって!本人としては、なんだか全然実感がなくて、どうも苦笑いをするしかありません…。嬉しいことは嬉しいのですが…。

■さて、ここで一つ注意しなければならないこと。それは、こうして図書選定で選んでいただくということと、実際にこれを読む現実の読者がこの本に何を感じ取るかは、全く別問題だということ。それを、僕はちゃんと認識していなくてはいけません。

■こんなふうに何かしらの「箔」がついてしまうと、嬉しくてついついはしゃいでしまいたくなる弱い自分がいます。でも、ここは気を引き締めて、この本の向こう側にいる現実の読者の気持ちをこそ第一に考えていなければ、と思い直します。

■100人の読者がいれば、そこに100の出会いがあって、100の評価がある。それを一つの公の評価で束ねることなど出来ないし、する意味もない。束ねてしまいたい誘惑(いや’束ねられたい’という欲求か…)にかられても、もしそれをしてしまったとしたら、そのとたんに、この本の影はすうっと薄れてゆく―いまはそんな気がしています。

■これは、なにも著作物だけ限った話ではないですね。写真全般、また生きること全般に渡っても「本当に大切にしなければならないことは何なのか」ということを、いつでも冷静に考えていたいと思います。「自分の身の丈」と「手に触れられる実感」をキーワードにしながら。

■特に、こうしてインターネットで幾万もの情報が瞬時に飛び交う世の中にあっては、自分が自分としてきちんと生きていくために、その気構えを崩さないでいることがなにより大事なのだろうなと思います。

■自分を自分でなくすることを強いるさまざまな「束ねる力」が、いま、特に強くなってきているように思います(60~70年ぶりに、と言おうか)。その力はあまりにも世に溢れすぎていて、いまや無味無臭の水や空気のよう。だからこそたちが悪いのですが…。

■己の根っこをどこに降ろし、その根っこで何を掴んでいるのか、漠然とでもちゃんと意識しておかなくては、ね。

■そういう意味では、新たに分ったこの2つの図書選定を、僕がネットで初めて知り得たということは、ある種、象徴的であり、逆説的に、僕にとってはとてもよかったことなのかもしれません。身を引き締める契機になったという意味で。ん、話が飛躍しすぎかな?

■それにしても、それらの選定の手順や目的、真の価値の如何を問わず、こうして一定の評価をしていただける著作物を一冊目の作品として出せたということに対しては、本当に、これまで支えてくださった人々への「ありがとう」の気持ちしかありません。

■僕を生み育ててくれた親はもちろん、幼少からいままで何かしらの縁を結んできたかけがえのない人たち、影響を与えてくれた写真その他の先達、力になってくれた出版関係者、この本を様々な形で広めてくれている書店関係者や読者の方々に、改めてこの場を借りてお礼を言いたいと思います。有難うございます。もちろん、いま共に暮らす家族にも、感謝。

(しかし、うーん。我ながらこの日記、やっぱりちょっと「優等生」過ぎるなぁ…。長いし…。)
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写真は、阿寒川に注ぐ支流のそのまた支流。

| | 00:43 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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ラジオ深夜便・心の時代

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■撮影に出ているときは、朝早く起きる。今朝も3時半に起き出して、車の中で食事の準備を始めた。そのときに、僕はよくAMラジオNHK第一放送を聞いている(カーオーディオにFMもCDもカセットもついていないから仕方なく聞いていると言う事情もあるが…)。

■朝4時台は「ラジオ深夜便・心の時代」を放送している。毎回各界で様々な活動をする人物をゲストに呼んで、その取り組みについてインタビューするという内容。僕はこの番組が結構好き。

■時としてゲストの話がとても興味深く面白いことがある。そんな日は、せっかく早く起きたにも関わらず、ついラジオに夢中になって撮影に出かけられなくなってしまって困る。じつは、今朝もそうだった。コーヒーをすすりながら、1時間ばかしラジオに聞き入ってしまった。

■今朝のゲストは、NGO組織「ペシャワール会」の福本氏。中村哲医師を中心として、アフガニスタン現地での支援活動を四半世紀にわたって続けている団体のメンバーだ。

■氏は、アフガンの歴史を踏まえたうえで、現在までの医療支援、インフラ整備支援、農業支援など、会の取り組んでいる様々な活動について語るのだが、それが大変興味深く、つい引き込まれる。

■1970年代からずっと戦乱の中にあり続けてきたこの国が、一体どんな経緯でいま状況に置かれることになり、そして、今後どうなっていくことが望ましいことなのか。日本のマスコミがあまり伝えない(ちゃんと伝えようとしない)現場の生の実情を語る氏の言葉に触れ、うーん、そうだったのか…と自分の無知を反省してみたり、ああなるほど、やはりそれが大事なのだな…と思ったてみたり。

■なかでも僕が興味深く聞いたのは、会の方針である「丸腰支援」についての話だった。つまり、支援事業にあたって一切武装をせずに現場に出るという方針のこと。

■アフガンには、過去30年に渡って続いてきた武力による支配権闘争の歴史が、いまもまだ深く根を下ろしている。そして、いわゆる「9.11」後のアメリカの軍事介入以降、それは依然として収まる兆しは見えない。国内にはまだたくさんの武装組織が散在していて、様々な名目でアフガンに入ってくる「部外者」に対し銃口を向けている。

■しかし会は、そんな状況のなかにあっても、自衛のための拳銃一丁すらもたずに、たとえば農業用水灌漑工事など、現場での作業を遂行しているという。

■危険は無いのか、とのインタビュアーの問いに、福本氏は答える。

■「私たちは、安全が脅かされれば直ちに撤退するという方針は持っています。しかし、まだそうした事態に陥っていない。興味深い事例があります。我々が行っている支援、つまり、この国の人々がもともと持っている力を活かして、この国を本来の「豊かな農業国」に変えてゆこうという農業支援のインフラ整備工事の現場では、日本からのスタッフを含めて全く丸腰で作業を行っていますが、一度も武装勢力によって襲われたことはありません。」

■「しかし、アメリカ資本によるある道路整備(これは軍用道路なのですが)の現場では、民兵による厳重な武装をして自衛策を講じていたにも関わらず、5度に渡って武装勢力による拉致・殺害がありました。問題は、その作業が何のためのものなのかにあるのだと思います。」

■「ただ、状況は変わりつつあります。アフガンの人々はこれまで日本人に対して畏敬の念を抱いていました。小国でありながら、日露戦争で大国ロシアに勝ち、広島・長崎では何十万人もの犠牲を出しながら、その後産業立国をして国を建て直した。また、過去中東に対して一度も軍事的に介入してこなかったことも大きい。

■そうしたことに対して、アフガンの人々は日本を評価をしていたんです。しかし、湾岸戦争以降、日本がアメリカの後方支援を進んでするようになってから、状況が変わってきたように思います。以前は、我々が移動するときの車両には日の丸の旗を掲げていたんです。それがある種の「安全保障」になっていたんですね。でも、湾岸戦争以後は、それをできない状況になってしまいました。」

■誰のために、何をするのか。そこに込められた思いは、いったい何処に向けられたものなのか。そして、そこに「武装」が本当に必要なのか。氏は続ける。

■「とかく丸腰、非武装なんていうと、現実を省みない’理想論’だなどと言われがちですけれど…」。

■しかし、アフガンではそれが「現実」のこととして安全を生んできたわけだ。とても興味深い。

■そういえば、イラク復興支援の名目で武装した自衛隊がイラクに派遣されたときにも、氏が語るのと同様の話を聞いた覚えがある。それはもしかしたら、ペシャワール会の人が語ったことだったのかもしれない。

■やはり、生の現場に長く身を浸し、実情をよく知った人の「現実談」は、淡々としながらも実に説得力がある。

■ともあれ、だ。安全とは何なのか。翻って「不安・恐怖=テロ」とは、いったい何なのか。恐怖を作り出している張本人は一体誰であり、危機とはいったい何処からやってくるものなのか。それらのことをもう一度よく考えたほうがいいのかもしれない。

■ここで、やはり、つい書いてしまう。末筆を大いに汚すと解りながら…。

■日本でも核武装、少なくとも議論は進めたほうがいいですか?同盟国を守るため、日本も’パトリオット=愛国’ミサイル、今後もどんどん配備した方がいいですか?何をしでかすかわからない「北」に対しては、常に最大級の警戒を怠らないほうがいいですか?そのためならば、焼肉屋だろうが、子ども達が通う民族学校だろうが、バンバン強制捜査を入れたほうが、いいですか?

■ついでに、「肉まんにダンボール混ぜて近所の住民に食べさせちゃった」という未曾有の国際的大事件が先日発覚しましたが(えっと…これ、NHKラジオのメインニュースで何度も繰り返し、繰り返し、繰・り・返・し放送するくらいだから、僕ら日本国民にとって、ものスゴイ問題なんだよね、きっと?)、そんな事件を起こすような不気味な「西隣の赤い大国」の脅威から国土と資源を守るため、日本も軍隊を持ったほうがいいですか?

■やはり、もう一度このあたりのことから、よく考えたほうがいい。なぜ今、NHKニュースが「ダンボール肉まん」報道にパクッと食いついちゃたのかも含めて。そう、「年金・年金」とかき回されてばかりいるよりも、このへんのことをこそ、いま、しっかりと。

ああ、また長くなってしまった…。午後の撮影に出かけるとしようか。もちろん、丸腰で。

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写真は、ナナカマドの葉と水滴。

| 平和 | 11:54 | コメント(-) | trackbacks(1) | 先頭へ↑

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久しぶりの阿寒

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■久しぶりに阿寒に撮影に来ている。本当は先月も来るはずだったのだけれど、娘の急な発熱や、溜まった事務仕事処理などで計画倒れに終わってしまった。実に数ヶ月ぶり。前に来たときには、まだ林内に雪が残っていたっけ…。

■天気はほぼ快晴。爽やかな青空と梢を渡る風が気持ちいい。でも、こんな日はむしろ、撮影は難しい。被写体として森を見たとき、日差しが当たる部分と影になる部分とのコントラストが強すぎるのだ。特に、黒々とした針葉樹を茂らせたこの阿寒の森では。

■また、連日晴天続きだとなおさら、木々や草花の肌が乾いた感じになって、森の生気を写真で表現しづらくなる(たとえぱさぱさに乾いた森でも木々の生気を表現できる写真家になりたいものだ…まだ精進が足りないな…)。

■今日はあまりシャッターを切らず、お気に入りの「苔の庭園」をゆっくりと歩き、時折大きな岩の上に腰掛けて風の音に耳を澄ませたり、足元にさくゴゼンタチバナを眺めたりして過ごした。なんと贅沢な時間の過ごし方か。

■しかし、そう実感する一方で、僕の脳裏を「本当にいま、こんなことをしていてもいいものなのだろうか…」と、ある種の罪悪感のような思いがよぎる。

■そう、これは、森を歩くたびにいつだって感じていることだ。森で過ごす時間、出先での体験が素敵であればあるほど、僕は、家にいるカミさんと娘たちの顔をいつも思い出してしまう。

■こんなことでは写真家失格か…。やはり精進が足りないな。里山の作品で著名な写真家Iさんはその昔、’自分は鬼になる!’と宣言して写真に取り組んでいたのだと、ある人から聞いたことがある。

■鬼、か…。僕の場合は、せいぜい「泣いた赤鬼」止まりだな。

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写真は、木漏れ日の中のハクサンシャクナゲ。

| 写真 | 18:14 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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いろいろ

■ベランダのトマトがなかなか赤くならない。もともと日当たりが悪いせいもあるのだが、このところの北海道の、全く夏らしくない低温続きの影響もあるだろう。

■それでも、数日前からようやく2~3つほど、ほんのり色を変え始めた実がでてきた。トマトの成長を楽しみにしている娘が、今朝も楽しそうに「ほら!また赤くなってきたでしょ~!」とはしゃいでいた。

■イチゴ畑のいちごは、土の中のちいさなおばあさんが赤い色をつけるんだけど、さて、プランターのトマトは、誰がいろを塗るのかな…?不思議だね。不思議って楽しいね。

■ところで、先日の函館ワークショップの余韻がまだ残っている。個人的にとにかく楽しかった。何より、こんなふうに著書を1冊しか出していない写真家をわざわざ呼んで、子供たちとふれあう機会を設けてくれる保護者や関係者の方々への感謝の念が、なおさら強まっている。

■今回もまた新たな縁が生まれ、秋にもまた函館周辺で同様の催しに呼んでもらえることになった(詳細はトップページの「イベント情報」参照)。

■つくづく、人の縁が有り難い。「人の間で生きるのって、楽しいな」と思える。「生きてるのって、いいな」と実感する。以前も日記に書いたが、出来ればこうした人生の妙味を、沢山の子どもたちが日々実感(予感)できるようになればいいな、と思う。

■その醍醐味を味わう前に、子どもたちを圧殺しちゃならんと思う。原爆や劣化ウラン弾で、いわれのない差別や偏見で、彼らが味わうべきこの妙味を台無しにしちゃならん、と思う。先の見えない競争原理の幻想のなかで、子どもたちの「人生を味わう感覚」を麻痺させちゃならん、と思う。

■ついでに、書く。

■「成長か、逆行か」という、じつに品のない「脅し文句」が、いま町中にこだましている。「立ち止まるな。振り返るな。上へ、上へ」、「つまずいても、再チャレンジせよ」という徹底した上昇志向、成功志向。

■これにより、人々の無意識下の危機感、獏とした未来への恐怖感は、密かに煽り立てられている。こういうのは「恐怖政治(テロリズム)」って呼ばないのかな?

■まず自分の意志でちゃんと立ち止まって「成長って、誰の為、何の為?どこかで誰かが多くを得れば、ほかの誰かが多くを失うことにならないのかな?」と問い直すための時空間が、いま必要だというのに。

| 暮らし | 12:01 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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函館で上映&ワークショップ2

■函館2日目。今日も市内の小学校でスライドトーク&ワークショップ。

■今日もまた、楽しかった。それにしても、小学生が書く、手癖・理屈で凝り固まっていない澄んだことばには、ドキッとしたり、ハッとさせられたり。

■下は2歳の男の子から、上はその子のおばあちゃまかな…?と思える保護者まで、どの参加者がつくる作品にも、それぞれの思いがぐっとこもっていて、ひとつひとつが何ともいえない魅力を放っている。

■いや、何より、黙々と、そして楽しそうに自分の作品に向き合っている参加者一人ひとりの姿そのものが、各々ひとつの「作品」であるかのように美しく見え、感動を覚える。

■画用紙に、拾い集めたバラの花びらを丁寧に貼り付けていた子が、そのほのかな匂いに気づき、にっこりと微笑んだ。ああ、何と素敵な光景、何と素敵な瞬間だろう。

■ある女の子は、校庭の片隅で拾ってきたクロマツのまつぼっくりを色鉛筆で描いていた。そこには短い文が添えられていた。その言葉を読み聞かせてもらったとき、僕は今回のワークショップ中で特に強く胸を打たれた。

(ただ、「胸を打たれた」と言いながらも、その正確な文面を覚えていないのがお恥ずかしいだけれど…本当に申し訳ない…。)

■一字一句をそのままお伝えできないのが残念なのだけれど、でも、その意は充分伝わると思うので、覚えている限りでその分を紹介したいとおもう。

「まつぼっくり」

かたくとじているとおもっていた
まつぼっくり。
でも、上や下からみると
すこしひらいているのがわかった。

■文学的な飾り気も、驚くような飛躍も衝撃もない、なんていうことはない文章だった。「あら、そうなの。」と、何気なく聞き流してしまえる言葉かもしれない。

■でも僕は、この言葉に触れたとき、思わず「ああ、これぞ真髄!」と叫びだしたくなってしまった。そう、じつは僕は、そういうふうにものごとを見つめる作法を学びたいがために、重たいカメラを抱えて日々森に入っているのかもしれない。

■ものごとを、あえて「上や下から」見ると言うこと。そこでいままで知らなかった何かに気づくということ。そして何よりも、それに気づくことができた自分自身の変化にきちんと思いをとめ、さらには、胸中に湧き起こったその思いを、自分自身のことばに託して外に放つということ。

■彼女が何気なく綴ったこのことば(詩)は「硬く閉ざされていると思っていたものが、じつは柔らかに開いていたのだ」という発見を歌っている。きっとそれは、彼女と彼女が拾い上げたまつぼっくりとの関係のなかから生まれてきた、純粋に「彼女の彼女による彼女のための発見」だったであろうと思う。

■でも僕は、その発見の価値に秘められた深い「普遍性」を、彼女の詩から感じずにはいられない。

■36歳オヤジのゲスで無粋な発想でこの詩を汚すことになるかもしれないけれど、敢えて言えば、今のこの、日々息苦しさを増してゆくような世の中において何よりも求められるのは、彼女が経験したような何気ない視点の変換であり、それを価値あるものとして心に刻み、自分に生じたその変化を自分自身の実感として喜ぶという経験だと僕は思っている。

■「閉じてると思っていたものが、ね、本当は開いていたんだよ!」

■きっと、開いていた(開いた)のはまつぼっくりだけじゃない。それは、ほかでもない、彼女自身のいのちをみつめるまなざしであるし、そして、彼女のことばを聞いた、すくなくともこの僕の心もまた、やっぱりすこし開いたのだ。

■今日は彼女に、素敵なことばを聞かせてもらった。なんて希望にあふれたことばなのだろう。いいなぁ。明日もみんなで生きていけるね。えっ?ちょっと大袈裟に喜びすぎかな、オジサン…?でも、このワークショップをやって本当によかったよ。有難う。

| 仕事 | 19:38 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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函館で上映&ワークショップ

■函館に来ています。今日は、市内のある小学校で、スライド上映講演と、それに引き続き、「身近な自然を見つめるワークショップ」を開催。

■昨年夏に函館で開催された「北海道子どもの本のつどい函館大会」でお世話になったDさんが企画してくれた。こうして1年たっても覚えていてくれて、声をかけてくれたのは本当に嬉しい。

■今日は、森の写真上映と「森のいのち」読み語りをしたあと、約70名の6年生たちに校庭に出てもらい、「いのち」というテーマで「作品作り」をしてもらった。

■おのおのが一人の「芸術家」になりきり、各自に配った画用紙上に、思い思いの「表現」をしてもらう。手法は、何をしても自由。条件は、他人のまねをせず、自分の五感とこころを信じて作品をつくること。だから、それだけに、結構ハードルは高い…。

■しかし、いざ始めてみれば、木の肌に紙を押し当てて鉛筆をこすりつけフロッタージュをする子、風景のスケッチに彩色をしてそれに俳句を添える子、拾い集めた落ち葉や木の実でコラージュをする子…。なかなかユニークな作品がたくさん出来上がった。

■数人の子に作品を発表してもらったときに、ある女の子が読んだ詩を聞いて、担任の先生が思わず涙していたのがとても印象的だった。それだけで、ああ、やってよかったな、と思う。

■時間の都合で全員の作品を見せてもらうことが出来なかったのは個人的に残念だった。でも、作品作りが目的ではないのだから、まあ、いいのか。子どもたちが、自分の足元にある小さないのちに気づくきっかけになれば、それでいい。

| 仕事 | 00:38 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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サミット、こんな記事

■おととい、サミットについて日記を書いた。そしたら今日、こんな記事が、とあるサイトに掲載されていた。

【敵はネオナチにあらず、反体制運動にあり━G8警備以降、本性現した独警察】
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200707092159261

■ここで「ほら、やっぱりそうでしょ!」などと膝を打って安心していてはいけない。弱い自分の襟を正す。それを自分に許すなら、それは、「ほーら、テロ、やっぱり怖いでしょ!」と同じ穴のムジナ。こういうときこそ、まずは、じっと自分の心根を覗き込む。

■それにしても、世界はどこへ向かうのか。まずはじっと芽室の地べたを凝視する。

| 写真 | 00:50 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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サミットに思う。

■今朝のNHKニュースを流し見していたら、洞爺湖サミットのこと。霧が多くて大変そうだと、警察など関係当局が今から現地の状況調査を始めているという。

■なぜ霧が多くて大変か。各国首脳を乗せたヘリが運行しにくいということもあるらしいのだが、それよりも懸念されているのは、「不審者」対策の観点からなのだと。霧に紛れて怪しい輩が会議を妨害しては困る、ということだ。

■ところで、今、国際政治の話題で「不審者」「不穏な動き」というとき、すでにそこには「テロリスト」「テロ」という意味も自動的に内包される時代になってしまった。

■理解不能な異国人や異人のすることはなんでもかんでも「テロ行為」と結び付け、正当・正義への許されざる脅威として排斥する風潮が、すっかり出来上がってしまったように思う。ほんとに困ったもんだ。

■きっとサミットにおいては、警察や公安など警備当局の頭の中ではすでに、「不審者」=「テロリスト」の図式がそうとうカッチリとできあがっているに違いないだろう。

■僕はここで不安になる。サミットにおける「デモ行為」のことだ。今の情勢や社会意識の中では、下手をすると正当なデモ行動でさえも「テロ行為」と結び付けられてしまう恐れがある。

■いうまでもなく「デモ」は「デモンストレーション=(意思)表示」の行為であって、日本においてはちゃんと「表現の自由」「行動の自由」として認められた基本的人権の発露だ。

■確かに、もしそれが極端にエスカレートして、対する当事者の意思判断に「恐怖=terror=テロ」を植え付けるものならば、広い意味での「テロ」と言えなくも無い(無理やり解釈をすれば…)。けれど、いまの世の社会意識に植え付けられてしまった血生臭い「テロリズム」的意味合いとは、デモ行為は明らかに分けて考えられなければならない。

■サミットにはデモが付きものだ。なぜか。それは概ね「何で金持ち・権力持ちのたった8カ国だけで勝手に世界のあれこれを決めちまうのよ?」という、極めて単純で的を射た発想に根をもっている。

■イタリアのジェノバサミットでも、この間のドイツのなんたらカンタラという町(ついこの間のことなのにその町の名前が思い出せない。「サミットをやれば洞爺の名が世界に知れ渡る」って、ほんとかなぁ…)で行われたサミットでも、会場の周りに押しかけた若者たちが、大国の論理に偏った「グローバリズム」に反対するプラカードを掲げ、盛んに意思表示をしていた。

■僕などはそれを見て「お、いいぞいいぞ」と思うのだが、どうも日本のマスコミなどを通じて与えられる彼らのデモ行為の印象は、全体的に「国際協調を妨害する困った奴らの困った行為」というトーンを帯びているように思う。

■現に、最近のサミット開催国の警備当局は、会議場を町ごと防護フェンスで囲い尽くし(まるで、イスラエルがパレスチナのアラブ人を締め出そうと築いた分断壁のように…)、また、デモ団体に向かって放水車で高圧水をぶっ掛けたりしている。徹底した邪魔者扱い、徹底した「排斥」思考だ。

■さて、今の日本の社会意識下で、サミット会場近くでデモを行ったら、どうなるだろう。警察や公安どころか、一般市民までが「霧に紛れてテロリストが不穏な動きをしてる。排斥、排斥!」なんて大合唱にならないだろうか。不安になる。

■それよりも僕は、洞爺の深い霧の向こう側で、本当は一体何が話し合われているのかに注意をしたいと思う。「環境問題が主題だ」などと言うけれど、ほんとのところはどうなのか。

■たった8カ国の、しかも権力のトップに上り詰めた特異な出自の人間達が、お山のてっぺん(=サミット)に立つ要塞「ウインザー城」にこもって、この広くて深い世界の何を語るのか。60億の深みを湛えたこの世界の、何を。

■「霧に包まれたお蔭で、下々の世界の事は全然気にならず、話題にすら上りませんでしたよ。全く、’美しいサミット’でした。」なんてことを開催国首脳が得々として語る。そんなことで終わってしまわぬよう、願う。

| 写真 | 11:25 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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実行委員会、解散。

■今日は、6月に企画・主催した「青田正徳氏絵本講演会」の反省会。互いに意見や感想を出し合い、決算をし、はれて講演会実行委員会は今日をもって解散。一区切りだ。

■それにしても、いやぁ、楽しかった!

■少人数の有志スタッフで、大掛かりな仕掛けはなし。平日午前中の講演時間で、なおかつ基本的に町民だけに募集をかけるというキワドイ方針をたて、とことん手弁当・人力戦略で活動をしたにも関わらず(町の予算はつけてもらったけど…)、予定していた定員を超える参加者を集めた。

■そしてなによりも、講演を終えてみれば「もっと話が聴きたかった。ぜひ第2弾を!」と何人もの参加者に言ってもらえるような会を催すことができた。

■企画の立ち上げや実行委員会での意思決定が、いささか僕のワンマンで進められがちになってしまったという反省点は個人的にはある。もっともっと「これは、みなで作ったのだ」というものにすべきだったかもしれない。

■それにしても、地元の同世代の若いお母さんたちとの共同作業で、我が町で「何か」形のあることをできたということは、個人的に、本当に嬉しい経験だった。特に、彼女達が見せてくれた参加者募集に関しての底知れぬ力には、感動すら覚えた。

■しかもそれが、「はい、イベント一つやりました。満足でした。以上、終わり。」というものにはなりそうにない、つまり、今後この町の子育ち環境を考えてゆく上で何かしらの動きを継続できそうな内容になったということがとても嬉しい。

■自分自身の「写真撮影と表現」という営みについてもいえることだけれど、一発花火を打ち上げて終わり、ではなく、むしろ、小さなものをコツコツと積み上げてゆくことの大切さを感じている。

■それは、何をするにしても共通する事だろう。大袈裟に言えば「生きること」の醍醐味とは、その過程を時折振り返るときにじわりじわりと味わえるものなのかもしれない。

■さてこのあと、今回の流れの中で、今度はどんな仲間が加わって、何ができるかな?それを考えるだけでも楽しくなってしまう。

■奇しくも昨日誕生日をともに祝った新得町のUさん、Y子さんは、先ごろ地元新得で「顔出し看板クラブ」という不可思議な会を結成し、皆でわいわいと楽しみながら町を盛り上げようとしているところ。同じ国道38号でつながった町同士、今後何か一緒に出来るかな…。うう、楽しみ!

■自分で言うのは口はぼったいけれど、こういう生き方ができること、そういう環境に自分がいまいるということが、ほんとうに幸せだなぁと思う。

■世には、幸せを感じたくても感じられない環境、幸せを口にすらできない環境にいる人々が(差別や偏見のなかでそれを強いられている人々が)たくさんいる。それに悲しさを感じ、何とかならんものかなぁと頭を悩ませつつも、一方で、身勝手な僕はつくづく、いまの自分を支えてくれている家族、出会ってきた人々、この身に起こったかけがえの無い出来事たちに、感謝の念を覚える。「ありがたい」とはこのことなのだろうな、と思う。身勝手で優等生的発言だけれど、でもこれは本心だ。

■願わくは、この町や世界のあちこちに暮らす子どもたちが、今回こうして36歳のオジサンが味わったようなえもいわれぬ感慨を、それこそ日常的に味わえるような世界になるといいな。これ、とんでもない理想論、夢想かも。でも、理想や夢想が無いところには、きっと何も起きない。

■これからもコツコツと、気張らずに、手で触れられる嬉しいものを、ともに暮らす人たちと積み上げていこうと思う。

■ところで戦争とは、その積み上げられてきたものを、部外者が部外者の都合で一気に叩き潰すという、じつに残酷な行為。「しょうがない」などと、いかなる免罪もあり得ない。そのことを、もう一度真剣に確かめた方がいい、このクニと、そこに生きる僕らは。

■いま長崎や広島から上げられている怒りに満ちた叫び声は、決してメディアをにぎわす為の「狂騒曲」などではない。ましてや、いまを生きるだれにとっても、他人事などでは、ない。

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誕生日イベント

■さっきまで、隣町の隣町、新得町にいた。現在すでに日付が変わってしまっているので、正確には昨日4日のことになるが、晩に新得町の喫茶店「BE Wild」で行われた「7月4日に生まれて」というイベントに参加してきた。

■参加した―ではちょっと可笑しな表現かもしれない。というのも、このイベントは7月4日を誕生日とする3人の十勝人の誕生を記念する会であり、その3人のうちの一人が僕本人だったからだ。しかも、当の3人が各々得意の出し物を参加者に向けて披露するという趣向。

■僕の出し物はもちろん、写真スライド上映とトーク、それと「森のいのち」読み語り。新得在住で農業兼ミュージシャンのUさんは、自曲のコンサート。生まれも育ちも新得で、喫茶BE Wildの女将であるYさんは、生粋新得人ならではの、昭和30年代の新得界隈の懐かし写真スライドショー&「新得に生まれて」トーク。

■3人ともそれぞれ少しずつ年代は違うのだけれど、何の巡りあわせか、同じ誕生日で、同じ新得関係者(いまは芽室にいる僕も、以前1年間ほど新得に住んでいた)、そして、互いに価値観を共感し合える友人知人同士なのだ。

■ついでに言えば、3人とも「アルバイト無しでちゃんと食べていけてるの?」と度々人に問われる中小自営業者でもある(Uさん、Y子さん、失礼!)。よりによって、7月4日といえばアメリカ合衆国の独立記念日=Independence(自立・独立) Dayだ。うーむ。これは神様の気の利いたユーモアだろうか…。

■共通の知人が何人か集い、3人の出し物を鑑賞しながら誕生日を祝ってくれた。僕のカミさんと2人の娘も参加。長女は眠い目をこすりながらも、最後まで付き合ってくれていた。

■家族での誕生会は前日3日に自宅でささやかに行い、しみじみと生きている喜びを味わったのだが、今夜のような一風変わった誕生会もまたなかなか楽しくていいものだ。

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鶴見和子・対話まんだら

■ああ、昨日(正確には一昨日)読み始めたばかりなのに、ほぼ一気読みしてしまった。「鶴見和子・対話まんだら~佐佐木幸綱の巻」。夜更かしは身体に悪いとわかっているのだけれど…。

■「対話まんだら」は、社会学者・鶴見和子と、科学・芸術など様々な異分野の第一人者との対談記録で、全10巻シリーズ。第3巻となる本書で対談している佐佐木氏は、歌人であり日本文学者。鶴見氏自身も短歌を詠むそうなのだが、本書では短歌を軸にして、ことばや歌に始まり、社会論や人間存在論についてまで話題が展開されてゆく。

■読み始めれば、「型と型破り」「発語といのちの根源」「生命のリズム」「アニミズムと歌」「循環」「内発的発展」「詩と科学」「漂泊と定住」「根拠へ向けて」…などなど、その字面を見るだけでドキドキするようなことばが次々に飛び出してくる。

■しまいには、
【佐佐木】
言霊の問題をどうお考えでしょう。言霊とは、…「言葉にもアニマがある」という見方だと思います。言葉は、そこで完結するんじゃなくて、…それ自身で循環の意思を持っているんだろうと思います。
【鶴見】
そう、こだまね。

…などというやり取りが交わされる。

■ここだけ抜き出せば、えらく抽象的に過ぎ、若干オカルト的な印象も感じられるかもしれないが、しかし、今月までの4年間、ある雑誌に「遥かなる木魂(こだま)を聴く」などという題名で、主にいのちと存在にまつわる心象記事をことばと写真で綴ってきた(つもりでいる…)僕にとっては、こうしたやり取りは、言ってみれば「ツボに的中!」以外の何ものでもない。(じつは今日、ある友人アーティストからもらったメールで、一連の連載の最終稿の読後感として「すべてが環になったような気がした」と言ってもらったばかりだった。きっとそれも作用してのことだろうが…)

■夢中でぐいぐいと読み進み、気が付いたら最後の解説を読んでいた。知らぬ間に日付が変わってしまっていた。しかし、こんな読書体験を出来る本と出会えるのは、実に幸いな事だと思う。

■この本を手にしたのは、いつも世話になっている札幌の絵本屋Hだ。ここには、絵本や児童書だけでなく、冊数は少ないながらも店主選りすぐりの「大人向け」の書籍も置いてある。何気なくその書棚の一角を覗いていて、本書の帯のことばがぱっと目に付いた。

■”どうしたら日常のわれをのり超えて、自分の根っこの「われ」にせまれるか?”。うむ、これは買ってでも読まないわけにはいかないな…とその時点で思う。

■実は「鶴見和子・対話まんだら」は、今年2月、別の絵本屋(旭川市のF堂)の店主に薦められ、シリーズ第2巻「中村桂子の巻」をすでに読んでいた。生命科学者との対談が納められたその巻も、刺激的で面白かった。

■各分野の第一人者同士、特に学者同士の会話の中には、完全に理解しきれぬ表現や、こちらの無知ゆえに読み解けない文脈もたくさんある。でも、それぞれが己が専門分野に固執せず、互いのフィールドが重なり合う境界部分にこそ世界の本質を見ていこうとする果敢な姿勢を感じられるだけでも、充分に読む価値はあると思えた。

■ところで、2巻と3巻のどちらも、絵本屋さん、つまり「子どもの本」の店で入手したということになる。偶然とはいえ、それが不思議で面白い。

■しかしその一方で、このことは、「子どもの本」というものが如何に深くて太い根幹によって支えられ立っているのかということを暗に物語っているようにも思える。なんだか、きゅっと身が引き締まる。


「根幹」に関して、ついでの蛇足追記-------------------------------

■桁外れに多量の参加者が各々の情報を流し、それを基にした仮想現実社会ネットワークを構築しようとする、その名もSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)というジャンルのインターネットサイトがある。その代表格は「mixi」。

■数百万人が参加するというそのサービスに、僕も参加していた。でも、一昨日から、そこへの参加(書き込み)や、そのサイトへの訪問、ページの閲覧自体を止めることにした。

■僕が知りえた限り、そこには、ある物事や人間関係が拠って立つべき「根幹」の存在が感じられず、それどころか、はたしてそこに、真にヒト同士の「関係」と呼べるもの自体があるのかどうかさえ、よく分らなくなってきたからだ。もっと簡単に言えば、その空間にものすごい空虚さを感じたから。

■発信される情報量はべらぼうに多い。しかし、それらが相互作用のなかで各々主題や焦点を持ち、そこに向かって収斂し、根をもち幹をもち葉を繁らせ、何かしらの有意義な「結実」へと昇華してゆく気配が、僕にはほとんど感じられなかった。

■新約聖書のなかにある「根無し草のようなもの」という言葉がふと思い浮かぶ、そんな世界。

■もしかしたら、広いSNS世界の中には、僕の知らぬいくつもの「根幹をもつ関係性」が存在するのかもしれない。いや、きっとあるに違いない。たまたま僕が、そうした環境に出会えなかっただけ、それに気付けなかっただけ、また、それに出会おうとSNS世界の深部まで突っ込んでいかなかっただけなのだろうとも思う。

■また、何よりも、情報発信や受信の当事者としての僕自身の心根の曖昧さやイヤらしさが、そうした出会いを阻害していたのかもしれない。問題はSNSの性質や存在の仕方にあるのではなく、あくまでも僕の姿勢と、僕とSNSとの間の相性にあるのだろう。

■そもそも、SNSに「根幹」や「結実」を求めること自体、僕の大いなる勘違いなのかもしれない。

■しかし、そうは言いつつ、どうも最近、SNSの中でなにかしらの良き社会的関係性との出会い(個人との出会いではない。現に、良き個人的な出会いはたくさんあった。)を得ようとあの空間をさまよっていても、まあ、言っちゃ悪いが、こりゃ時間と電気代の無駄だなぁと、そう思えてしまったのだ。

■PCの前に座る自分の姿に「根無し草」を見ないうちに、思い切ってその世界と決別しようと、そう思った次第。

■いやはや、長い日記に、さらに長い蛇足でした。

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パイ

■昼前、妻は次女と連れ立って町内の育児サークルへ。僕は自宅で仕事。出かけ際にカミさんが「冷凍パイ生地を解凍しておいたから、何か作っておいて欲しいなぁー」と言い残していった。

■そんな暇はない、と思いながらも、カミさんに任せておいたら、下手をすれば「お腹すいたから、生地だけ焼いて食べよう」などと許されざる発言をするかもしれない。思い直して、台所へ。

■冷蔵庫を物色。りんごがあれば迷わずアップルパイで決まりだったが、果物はみかんと少々のさくらんぼのみ。他には…トマト、ベーコン、マイタケ、豚ばら肉、玉ねぎ、シュレッドチーズ。これは、ラザーニア風の何モノかを作れという神様の計らいだ。

■二枚一組のパイ生地を半分に切り、4枚にして、それぞれを若干麺棒で伸ばす。豚肉を包丁で叩き、それにトマトと野菜でソースを。耐熱容器にバターを塗り、パイ生地・ソース・カリカリにしたベーコン・チーズの順に重ねてゆく。オーブンに放り込んで仕事に戻る。

■しかし、オーブン料理というものは「加熱をはじめたらあとは時間まで何もしないでいい」はずなのだが、ついつい中を覗いてしまいたくなるのが困りものだ。はっきりいって、仕事が手につかない。仕事を進めねば。でも、うーん、オーブンの中でくつくつと膨らんでゆくパイ生地も気になる。

■誘惑と闘いつつ、約30分。食欲をそそるいい香りが家中に満ちてきた。かくて、ラザーニアでもない、ミートパイでもない、何だかわからないけれどなかなか美味そうな一品の出来上がり。

■帰宅し、次女を寝かしつけたカミさんと2人で食す。なかなか美味い。ただ、ベーコンとチーズの塩気を考えずにソースの味を決めてしまったので、トータルとして少し塩辛いな。★2つというところか。

| 暮らし | 14:52 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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いろいろ

■原爆はしょうがなかった、という「防衛」相。それを、表面上はいさめつつも、擁護する内閣。その内閣を、結果として選んでいるところの、僕ら。腹立ちと、苛立ちと。

■昨夜、宮脇昭著「鎮守の森」文庫版を読了。参考になった。その後読み始めたのは「鶴見和子・対話まんだら~佐佐木幸綱の巻」。ことばと歌と生命、社会。「対話まんだら~中村桂子の巻」に続き、非常に興味深く読んでいる。

■午後、町の市民活動の先輩Mさんと懇談。これからのまちづくりについて。有志を募って、ゆるやかな連携のなかでそんなことを継続的に考えてゆける場を作りたいね、と。よりよい未来を見据えながらことばを交えるのって、楽しい。

■先日、突然娘が高熱と下痢で入院。3日間、病院のベッドで点滴の日々。現在は至って元気だ。よかった。

■しかし、つくづく思う。当然のように毎日の暮らしをともにしている愛すべき家族。だけれど、たとえば朝出かけて用事を済ませ、夕方家に戻ったときに、再び互いに元気で再会できる絶対的な保証など、じつはどこにもない。それは、森で撮影をしているとき、車で移動しているときに、特に強く思う。

■僕はときおり、娘たちやカミさんとまた生きて会えるということが、実はとんでもない奇跡なのではないかと感じることがある。当たり前の日常は、じつは当たり前ではないのかもしれないと。

■そんなことを思いながら、あらためて「原爆、しょうがない」というコトバを考えるとき、もう、どうしようもない憤りの念が腹の底から突き上げてきて仕方がないのだ。

| 写真 | 21:49 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

2007年06月 | 月別の日記 | 2007年08月


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