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2007年11月 | 月別の日記 | 2008年01月

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大雪

■いま北海道十勝では雪が降っています。予報では夕方までに50センチは積もるとのこと。すでに朝の雪かきは一度終えたのですが、除雪するそばから雪が積もってゆきます。ふう…。

■なんだか冬の荒天に溜息ばかりついていますが、でも、やはり僕は雪が好きだなぁ。静かで、それなのに圧倒的で。到底太刀打ちできぬ自然というのものの凄みが、翻って、ヒトの営みの何たるかをそっと教えてくれます。

■そうそう、来年1月の関西・広島・四国でのイベント予定がいくつか追加になりました。京都での写真展が会期延長、尾道の学校での講演開催もほぼ決まり、さらに充実しました。詳しくはこのサイトの「最新情報」ページを。

■イベントの中には一般参加ができるものも有りますので、近隣の方はぜひご参加くださいね。
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| 暮らし | 11:56 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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黒い山、水色の山

■家族と共に、3日間、札幌に出ていた。仕事と、私用と。先ほど自宅に戻ってきた。

■素敵な3日間だった。この日記になにを記したら良いか迷うくらい、いくつもの印象深い出来事や出会い、会話を経験した。21日に1歳の誕生日を迎えた長女のこと、22日のスライドトークでのこと、仕事での新しい出会いや、立ち寄った場所での友人・知人達との有意義な時間のこと…。いろいろ思い返される。

■でも…恐縮ながら…それらのことはさて置いても…えー…またしても…我が長女のことを書こうと思う。

■この日記における長女の登場頻度、つまり僕の親バカ度数の高さにはほとほとあきれてしまうばかりだ。でも、今日の帰路の道中、彼女と交わした会話は、この3日間のうちで一番深い印象を僕の中に残した。

■それは、なんのことはない、「山の見え方、言い表し方」についての、ほんの二言三言の会話だった。

■帰路、由仁町の国道を走行中、進行方向正面の山並みの奥に、全山に雪を頂いた夕張岳の姿が見えてきた。山好きの間では「花の名山」として名高い、標高1688mの秀峰だ。

■手前に居並ぶ低い山並みのほとんどが僅かにしか雪をかぶっておらず未だ”黒々”としていた分、すでに真っ白く雪化粧をした夕張岳がひときわ美しく見えた。

■そこで僕は、助手席の長女に「ほら、あれ、見てごらん。あの山、夕張岳ってんだよ。きれいだねぇ!手前の”黒い山”(山並み)の奥の方に、白く見えるっしょ?」と声をかけた。

■すると彼女からは、僕が期待していたのとは全然違う言葉が返ってきた。長女は、僕が指し示した方角をじっとみたあと、意外にも、僕をたしなめるような口調でこう言った。

■「ねー、おとーちゃん。いま”黒い山”って言ったしょ?でも、それ、間違ってるしょ。ほら、あれはァ、”水色の山”。黒くないでしょ!」。

■それは、全く正しい指摘だった。

■手前に見えていた低山帯は、日没直後の弱弱しい光のなか、青白い空気の遠く向こうに佇んでいた。光の屈折の加減か、大気成分の散光特性の故か、それは確かに、色彩としては「水色」と表現すべき色合いに染まっていて、いわゆる「青い山脈」であった。まさに長女の言うとおり、それは少なくとも「黒」なんかではなかった。

■この長女の何気ない”反論”に、僕は虚を衝かれ、ハッとし、そして、我が身を深く省みた。つまり、自分の思考や感性、その表出である表現行為がいかに「慣用的」「典型的」なものに依存してしまっているかを痛烈に感じざるを得なかった。

■たしかに、慣用的には、その山並みは明らかに”黒々”としていたと言い得るだろう。特に、真っ白な夕張岳の前でその”黒っぽさ”は際立っていた。なにしろ、白さの究極の対極は黒さに「決まっている」。

■また、実際にあの低山を実地で歩いてみれば、雪に覆われていないむき出しの土壌は無彩色の暗褐色であることに多分間違いは無いだろう。あの山の実際の姿が物理的には例えば「水色」などではありえず、限りなく”灰褐色~黒色系”であることは、数々の経験や知識のなかで、僕にとっては「分りきった」ことだ。

■だから僕は、何の迷いもなく”黒い山”と口にする事ができたのだ。

■しかし、長女の指摘により改めて見つめ直さざるを得なかったその山並みは、実際のところ、悲しいほどに美しい青さで僕の網膜に映っていた。

■「あなたの眼は、いったい、何を見、あなたの口は、いったい、何を言っているのですか?」長女の無邪気な返答が、その裏で、僕に問うていた。

■「典型」「常識」「通念」「経験則」。言わば大人になるために身につけてきたもろもろの作法や術が、いかに本来の身体感覚を鈍らせてしまっていることか…。そして、何気なく、そして悪気なく表出してしまう「正しい慣用表現」が、時として、物事が本来見られるべき姿にいかに色濃くフィルターを掛けてしまうことか…。

■多様な経験や知識から導きだされ身についた諸々の「型」「術」や、外来の「価値観」等々は、もちろん、ひとりの人が底深い世界に屹立しようとするときの大きな支えとなってくれるし、広い世界を渡るときの通行手形となる。また、混沌とした世界を自分の中に取り込み、すとんすとんと落とし込んでゆくためのプロセッサにもなる。

■大人になってゆく事の面白さ、醍醐味とは、その「型」や「術」、「観」を駆使しながら、目の前の世界を着実に自分のフィールドとしてゆくことにあるだろう。

■だが、それらがもつ分析・分類・咀嚼などの機能の利便性に無自覚に寄り掛かり、それに慣れてしまうと、いつしか、本来目指すべき世界の深さや広さ、混沌という名の豊かさそのものへの感受性が失われていってしまう。

■僕が娘の前で露呈してしまった「白に対する黒」というステレオタイプの発想とおもわず口をついて出た「黒い山」という表現は、僕にとっては、まさにその悪しき例だった。

■ここでもやはり、いつもの日記執筆時同様、「なにもそこまでコトをややこしく考えなくても…」という声が自分のうちから聞こえてくる。でも、むしろ、自分自身の身体感覚でコトを考えなくなること、考えなくても済むようになってしまうということの負の作用を、今回の一件は改めて指摘してくれたように思う。

■ふと、オーム真理教事件の背景を描いたドキュメンタリ映画『A』『A2』の監督・森達也氏の言葉「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」が思い浮かんだ。そう、白い夕張岳の”黒き前景”に過ぎないと思い込んでいた名も無き山並みの風景は、じつはその瞬間、豊かで美しい色彩をもっていた。5歳の娘の何気ない一言は、静かにそれを訴えていた。

■そして、先日見たNHK「プロフェッショナル」を思い出す。絵本作家・荒井良二氏が「宿命の敵=大人の自分」として言い表していたのは、まさにこのことなのだと合点。

■宿命的にすでに36歳の”大人”になってしまったこの自分が、物をどう見、聞き、そこから思い、表現するか、という事の「大事」を改めて考えさせられた。「こどもは本当に感性が豊かですからね!」なんて”常套句”に寄りかかって安楽せずに。

| こども | 22:16 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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秩序

■我が家の風邪ひき流行もようやく収束の見通し。長女もインフルエンザではないようで、一安心。今日は母とともに保育所のもちつき大会に出かけていった。

■僕は自宅で洗濯物干しと皿洗いを済ませて、次女のおもり。こうして家にいて次女の様子を間近に見ていると、成長の小さな変化が分かり面白い。

■昨日あたりからは、小さなお菓子の空き箱にドキンちゃんの人形を入れ込むことが面白くなったようで、何度も「出しては入れ」を繰り返し、きゃっきゃとはしゃいでいる。

■どうやら、ある空間の中にモノが入る・ハマる・収まるということの’気持ちよさ’を感じているようだ。いささか拡大解釈かもしれないけれど、これは能動的な行為で「秩序」や「秩序ある状態」を成立させていくことの気持ちよさであるといえるから、きっと、あらゆる科学的思考、また芸術行為に通底する感情なのだろうと思う。

■また、長女がお絵かきしている傍らで色鉛筆を「ふんふん!」と振り回しているのをみると、次女は次女なりに、「白い紙の上に、いままでなかった色や形を出現させる」という長女の行為に不思議さと興味を覚えていて、それを真似したがっているらしいことも分かる。

■自分で発見した’気持ちよさ’や、他者の行為を模倣することのなかで、次女は、身体運動を連動させながら自分の欲や感情をある秩序の中に置き換えていく訓練をしているのだろう。

■こうしたことは、きっと誰もが必ず通る人間成長の過程であり、ほんの些細なことなのだろうけれど、こうして改めてそれを凝視していると、とても面白い。

■と同時に、それら’ささいなこと’が秘めているであろう「意味」の大きさに、改めて襟を正したくもなる。「親として子どもとともに生活する」ということの意味の重大さを認識する。まぎれもなく、一人のヒトが、いまこの自分の目の前で、自分が提供した環境のなかで、人間獲得へ向けて着々と育っているのだ。

■そのことに過分な責任を感じて汲々とする必要はないまでも、子どもが育ってゆくことの喜びと楽しさを味わう裏側で、やはりいつもそれなりの覚悟と適度な緊張感をもっているべきなのだろうなと、思う。

■ところで、我が次女、もちろん秩序構築行動のみを行っているのではない。それとは正反対に、本棚から絵本を延々何冊も引っ張り出して放り投げる・破る、とか、長女の色鉛筆やクレヨンをわしづかみにして放り投げる、ティッシュをぶっ散らかすとか、まあ実に赤ちゃんらしいエントロピー増大行動にも余念がない。

■それに付き合うのも、まぁやはり、親としてそれなりの覚悟がいるわけで…。でもね、次女よ、お陰でオトーチャン自身のお仕事は相変わらず無秩序のままなのよ…。

-------------------------------
追記
■今日の日記を改めて読み返してみると、改めて、本当に僕は、あったりまえのことをさも重大なことのように書く性癖があるなぁ、と思う。「あかちゃんがそんなことするの、当たり前だべさ」と言われたらオシマイ、というような日記だ。

■しかし、これまでに何度も書いてきたことだが、僕は常々「当たり前のこと」を蔑ろにしたくないと思っている。むしろ、当たり前のことを凝視し、その中に潜む物事の理(ことわり)にこそ光を当てて、そこに価値判断の基準を置き、そこから軸足をぶらしたくないと思っている。写真表現もそうだし、生き方もそう。

■そんな思いを抱きながら新聞を読むと、当たり前じゃない世界観のなかで当たり前じゃない数と力の錬金術にすっかり酔っ払って宙を漂う世界各地のオジサンたちの醜態が、ことさら痛々しく感じられる。じつにエラそうな言い方だけれど。

■まずは、戦争なんて馬鹿げた異常状態を終わらせたらいいのに。で、浮いた莫大な金で、環境・貧困の問題を、今よりもっと改善できるじゃん。これって当たり前の考え方ではないのかなぁ?

| こども | 11:07 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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十勝スローフードキャンプ

■友人からすてきなイベントの開催情報が来ましたので、転載します!まだ申込み間に合うみたいです。

詳細はこちら
十勝千年の森

■主催団体の「十勝千年の森」(らんらんファーム)は、十勝毎日新聞社が出資する自然体験施設。うちの子も、ヤギの授乳体験やらなにやらでお世話になっています。日高山脈の麓で楽しい冬体験ができると思いますよ。

以下転載
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~十勝スローフードキャンプ~のお知らせ

十勝の美しい寒さと十勝の食をテーマにした4日間のキャンプです。
食べるためにはまず、箸と器作りから始まり、
そこには道具を使いこなすという試練があります。
そして、食は近くの農家に食材をもらいに行き、自分たちで料理する。
薪ストーブや夜のかくれんぼ、クロスカントリースキー、
星を見ながら五右衛門風呂まで、
あたたかい家の中でぬくぬくゲームをしてすごす全国の子供たちへ送る、
現代の私たちの生活を振り返る、
温かいキャンプそれが~十勝スローフードキャンプ~です。

皆様の参加お待ち申し上げます。


■時:2007年12月26日~29日(水~土)※駅、空港からの送り迎えあり
■場所:十勝千年の森とその周辺
■対象:小学3年生~中学3年生■定員:15名■〆切:12月20日
■料金:30,000円※保険料含む
■お問い合わせいただければ詳しい資料をお送りします。
■お問い合わせ:0156-63-3000(福井)

| お知らせ | 13:19 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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風邪

■長女の熱が一昨日からなかなか下がらず、先ほど、再度病院へ連れて行く。休日外来には何人かの風邪ひきらしき子供が。やはり流行っているのだ。インフルエンザでなければいいが…。

■長女は、出かける前に入れた座薬が効いたのか、いまのところスッキリした表情で横になっているが、昨夜は夜通しずっと高熱が続いてちょっとひやひやした。夫婦共に、あまり寝ていないので、次は親の体調不良がぶり返して…なんてことになるのが怖いな。

■ということで、僕本人も含め家族の体調不良のため、なかなかPCに向き合う事もままならず、この間に頂いたメールのお返事など滞っています。ごめんなさい…。

| こども | 10:36 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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ダウン

■風邪だろうか…。一昨日朝から、倦怠感、発熱、胃腸不良で2日間ダウン。今日の夜、ようやく30数時間ぶりに固形物を口にした。

■我が家では、現在、皆カゼ様の何かに病んでいる。多分その感染源は長女のかよう保育所なのだが、まあ、これは保育所通いをさせている家庭の宿命かもしれない。

■今日、自然グラフ雑誌「faura」が届いた。以前僕もフォトエッセイ連載をしていた雑誌だ。いつも真面目な記事作りで北海道の自然の姿を紹介し大変好評な雑誌なのだが、今号は特に良かった。

■なんせ、特集が「ブラキストン線」だもの。知ってます、ブラキストン線って?マニアックといえば、おそろしくマニアック。

■雑誌の売れ行きを大きく左右する特集テーマにこれをもってくるあたり、この編集部の生真面目さ、いや、意識の高さが如実に出ている。

■また、あるイベントでの対談収録「小野有五*水越武対談」も読み応えがあった。

| 暮らし | 22:30 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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長女の絵 【親ばか注意】

■今日も一日執筆だ。昨日の荒井良二さんの創作姿勢が、参考になっているような、全然なっていないような…(笑)。でも、本の構成や文章が次第にいい具合に「削れて」きていることは事実だ。まずは編集者にどう読まれるか、それが問題ではあるが。

■さて、表題の件。
【ご注意:以下の文章中には過剰な「親ばか表現」が含まれるため、閲覧中に少なからず気分を害する場合もございます。充分にご注意ください】

■下の画像は、長女が書いた「お遊戯会の絵」。9日に保育所で行われたお遊戯会を思い出しながら書いたのだと。

071211保育所お遊戯絵

■ステージ上でお友達と踊る長女。ステージ下でそれを見ているのは、母と妹。なんてことはない思い出のワンシーンだ。

■しかし、昨日保育所の教室でこの絵を見て、僕は「むむーう…」と唸ってしまった。長女はいつの間にこんな絵を書けるようになったのだ…。正直、驚いた。

■というのも、その画中の登場人物や事物の関係の描き方が、なんと「三次元」だったからだ。こんな絵は、長女の書いたものとしては、僕ははじめて見た。

■本来、絵を比較して論じることはナンセンスであり厳に避けるべきことだが、しかし、ここはあえて他の子たちが書いたものと長女のものを見比べてみた。

■すると、1歳上のクラスの子供たちも含めた他の全ての子が、観客席とステージ、また画中に登場する人物の位置関係を並立で平面的・二次元的に描いているのに対して、長女の絵だけが前景と後景が重なり合った三次元表現で描いていることがわかった。

■なによりも、この絵の三次元構図を支えていて、またこの絵をもっとも特徴づけている要因であるところの、ステージを見つめる母と妹の「後ろ姿」。そこに僕はビックリした。

■観客席で観覧する自分の家族を絵に書き込んでいる子たちは他にもたくさんいた。大好きな家族が観客席から自分の晴れ舞台を見守っていてくれることほど子供たちにとってうれしい事はないだろうから、その気持ちを絵に表したくなるのも当然だ。

■しかし、多くの子がその家族をも自分自身と同じ「正面像」で描いていた。つまり、画中の全ての人物が笑顔でこちらを向いていた。それに対して、長女の絵はまったく違っていた。

■あたかも「別の自分」が会場全体を俯瞰しているかのような視点で、ステージ上の人物と観客席の人物を対面する構図で描いている。つまり、ステージ上の自分も、またそれを見守る家族も、その関係性もろとも客観視して描いているのだ。

■お遊戯会のあと、長女自身、母と妹が見てくれて嬉しかった!と、本当に嬉しそうに言っていた。きっと長女の中にも、他の子同様、ステージ上の自分を見守ってくれていた母の「笑顔」は、嬉しさの感情とともにしっかりと焼きついていたことだろう。

(だからこそ、多分彼女は、母の頭部を先ず始めに画用紙に書き出したのだろう。それが画用紙の中心にあることや、ステージ上の自分自身の姿がいささか寸詰まりになってしまっていることでそれが見て取れる)

■しかし、その内面感情や映像記憶をのり超え、また、これまで彼女自身が慣れ親しんてきた「人物像は正面から、顔を第一に描く」という作画法も突き抜けて、彼女は愛する母と妹をあえて「後ろ姿」で描いた。「客観的な関係性」を見事なバランスと作画で描いてみせた。

■自分と他者との関係性、そして、それを俯瞰で見つめうる「第3の視点」の存在。つまり、意味的にも三次元であるところの絵を、彼女は書けるようになったのだ。

■僕はなにも物事を客観的に描けるようになることのみが表現上の「上達」だとは思わない。長女の年齢でこうした表現ができることが「早い」のか「遅い」のかも分らないし、そのどっちだって構わない。また、先述したが、他者との比較で表現の仕方を云々するのは最大のナンセンスだとも分っている。

■でも、長女にとってこの絵が明らかに「新次元」の絵であることは、親である僕が一番良く知っている。長女の世界を見つめる眼、そして表現する心と手が、また少し奥行きを増したのだ。人間の成長を目の当たりにした一枚の絵でありました。

■もちろん長女には、父からの過剰なほどの賛辞をこれでもかと言い与えた事は、言うまでもありません。はい、親バカですから。

| こども | 19:33 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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荒井良二

■本当は撮影に出かけるはずが、今日も一日執筆。ノっているような、煮詰まってしまっているような、つまり、抜けられない状態。

■そのような日に、つい先ほど偶然つけたTVでやっていたのがNHK「プロフェッショナル~荒井良二」。

■余計に、抜けられない状態の深度が増してしまった。寝られない。

| 芸術 | 22:48 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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お遊戯会

■昨日日曜日は、長女がかよう保育所のお遊戯会。完全に「親ばかモード」で臨む。

■それにしても、我が娘、大きくなったものだ。昨年はステージの幕が上がると同時に、緊張のため完全に固まってしまい微動だにしなかった娘だが、今回は、同じ組のお友達と一緒に、じつに楽しそうに、のびのびと歌ったり踊ったり。

■その娘の成長に比べて、わが身の成長の遅さは…。比べても仕方ないことは重々承知していうるのだけれど…。

■今日月曜は、一日中在宅で仕事。主に原稿書き。児童書の新作。ようやく本気になって取り組み始めた。我ながらスタートが遅い。しかし、請うご期待!(ほんとかなぁ?)

| 暮らし | 23:37 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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いろいろ

■午前は町内で開催の「パパと遊ぼう!講座」の最終回。娘二人とカミさんと参加。体を使った共同遊びを楽しむ。

■この講座のファシリテーターは、東京でドラマ教育(ドラマによる表現教育;Drama Education)の手法を用いたワークショップや講座、演劇創作活動などを実施している某NPO法人のスタッフSさん。演劇などの芸術行為を通して「生きる力」や「コミュニケーション力」を得る、というのがコンセプトの活動をしている。

■じつは先日、このNPOの別テーマの連続講座企画の一環で、中学生と「デジカメ写真絵本作り」をするワークショップ企画の講師を務めさせてもらった。

■身体運動や感覚発動を通し、表現行為のなかで自己と向き合ったり他者と向き合ったりする、という事においては、演劇も写真も共通している。

■今日参加した「パパと遊ぼう!」シリーズは、「生きる力の獲得」というよりは、親と子双方にとってのお楽しみ的要素の方が強い内容で、言わば「コミュニケーション力」獲得の入門編という感じ。

■でも、親にとっても子にとっても、言語以外の感覚を通した意思疎通や会話の経験のなかで得られるものは、それが「お楽しみ」の中でのものであっても、侮れないほどに意味の大きいものだろうと思う。

■僕自身、親としても、写真家としても、いろいろ学ぶ事が多い講座だった。

■午後は帯広市内に出て、帯広市中央図書館で開催された「お父さんの読み聞かせ講座」に、やはり家族総出で参加。講師は、釧路短期大学助教授の小林秀人氏。

■図書館司書、自治体教育委員の経歴中、30年以上にわたり実際に子ども達に読み聞かせをするなかで実感された「絵本読み語りの意義」、また絵本の素晴らしさを語る講話に、共感と感銘。

■また、純粋に読み聞かせを楽しめたというのも良かった。特に、男性による読み聞かせは機会が少ないのでなおさらだ。

■普段は、僕から娘達へ「読んで聞かせる」という立場で絵本と接する事が多いから、完全に聞き手として絵本世界にどっぷり入り込むという経験がなかなか得られないのだが、今日は講演の最中に氏が何冊も素敵な絵本を読み聞かせしてくれたので、完全に「聞き手」の立場で男性による読み語りを聞く事ができ、とても刺激になった。

■ま、女・男の区別は問わず、やっぱり絵本や児童書っていいのもだなぁ。自分で読むのもいいが、思いがこもった声で他者に読んでもらうってのは、格別だ。いい経験をさせてもらった。今後、子ども達と触れ合うときのヒント、また著作執筆のときの大きなヒントになる。

■その後、家族で簡単な夕食を帯広市内で取り、僕だけ市内に居残って、昨日の日記でも紹介した映画「Marines Go Home 辺野古・梅香里・矢臼別」の上映会に参加。

■自分が関わった映画ではあるが(いや、それゆえか)、あらためて「映画でも写真でも、取材の中で’奇跡の瞬間’ってあるんだよなぁ…」と思う。なぜこの時にそこに居合わせ、そこにカメラを向けていたのか…と、後で見返して不思議になるような瞬間。

■じつは、それが積み重なることで、力のある作品は出来てゆく。「Marines Go Home」も、地味ではあるが、僕にとってはそれが感じられる映画。

■上映後は、監督の藤本と、つい最近藤本プロデュースのドキュメンタリ映画作品を監督し完成させた友人の田代陽子とともに、帯広の新名所「北の屋台」へ。我々共通の友人Oちゃん氏が出す店「Sam's Bar」で美味しいワインとモツ煮込みで乾杯。

■忙しい一日だった。それにしても、今日の要件3件のうち2つが「お父さんのため」関係の催しであったのが、なんだか可笑しい。でも、個人的には今後大事にしていきたい視点ではある。

| 未分類 | 23:22 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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写真、映画、戦争

■午前、隣町で開催中の二科会北海道支部写真展を観る。数日前に知人で二科会員のFさんよりご案内いただいていたもの。

■ああ、たくさんの写真を撮る人がいて、そして、たくさんの写真があるのだなぁと、つくづく。そしてやはり、「写真て、なんだ?写真を撮るって、何のため?」と考えてしまった。もちろん自分のこととして。

■夕方、先日「不都合な真実」上映が行われた同会場で、知人でありまた一緒に仕事をする仲でもあるドキュメンタリ映画監督・藤本幸久の講演&映像上映。僕が撮影に携わったシーンも登場するので、関係者として参加。

■藤本の次回公開予定作品は、イラク戦争を切り口にして「アメリカ」という国を見つめるドキュメンタリー作品。

■前作「Marines Go Home 辺野古・梅香里・矢臼別」では、米軍基地問題から、アメリカという国が自国の「外側」でどのように戦争の準備をし、戦争をしているのかを見つめた。

■次回作では、その視点をアメリカの「内部」に向け、「戦争を仕掛けている国では、どんな人々がどのように戦争と向き合いながら生きているのだろう」という視点で撮影が進んでいる(なお、今作の方の撮影には、僕はいまのところ関わっていない)。

■イラクで愛息を失った母親たちの悔やみ切れぬ後悔の声。戦地で何人ものイラク人を殺し、結果、重いPTSDに苦しみ続けるイラク帰還兵の若者。サマワ付近で劣化ウラン弾被爆した帰還兵。軍事費に国家予算が食いつぶされる中で増加する生活難民、ホームレスの人々。

■それら「戦争をする側」に属する人々の声に耳を傾けると、戦争というものが人々の暮らしや心、生命に、一体何をもたらしているのか、その現実の一端がよく見える。

■藤本は、アメリカ取材の実感として、アメリカを蝕んでいる「格差社会」が戦争を下支えする要因になっていると言う。

■イラクに派遣される兵士の多くは、家庭の所得が低いために大学進学やまっとうな就職が望めない経済的弱者層の若者達だそう。金がないものは、軍隊に入るのが一番確かな「生活保障」なのだそうだ(アメリカの公的健康保険制度の不備、被保険率の低さはよく知られているが、軍隊に入れば健康保険にも自動的に入れる)。

■戦争が泥沼化し、軍事費が国家予算を圧迫、格差と貧困が助長され、結果それが「徴兵効果」を生み、泥沼の中へ次から次へと新たな兵隊を送り込む。なるほどな、言葉は不適切かも知れないが、うまく繋がっている…。

■アメリカの病巣は深い。

■そして、忘れてはならないこと。それは、いまこの日本がそのアメリカと「一体化」したがっているという現実。「国際貢献」「わが国の国益のために」と言いながら、軍事基地も作ってあげ、油も提供し、国債買って下支え。最後は、一緒に戦争ができるように憲法を変えるのだそうです。

■ところで、日本でもなにやら格差社会化と貧困化が進んでませんかね。一流企業は過去最高の営業収益だと喜ぶ裏で、ネットカフェで夜を過ごすアルバイト青年たち、灯油代をどう節約するかに悩む年金暮らしのお年寄り。もしかして、こんなところでもアメリカと「一体化」?気のせいだといいけど…。

■車のアイドリングを止める前に、レジ袋を使うの止める前に、もっと急いで「止める」べきこと、否「止められる」ことがありそうだ…と今日も強く思った。

| 未分類 | 23:18 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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講話

■昨日は、早朝6時から帯広市内で短い講話。会社経営者のセミナーで。「経営」と程遠い僕のような風来坊が何を喋る…?悩みましたが、いつものとおり、森のスライドをお見せして、森のいのちのお話となぜ写真家になったのかなどを紹介。

■午後は、原稿書き。昨夏の「子どもの本のつどい芽室大会」の報告集の挨拶文。ああだこうだと書いては推敲を繰り返しているうちに、結局夜までかかる。こういうのを、ささっと時間をかけずに書けるようになりたいものだ。

■今朝は青空も所々のぞく空模様。でも雪もちらついている。冬の北海道であります。

| 仕事 | 12:13 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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まちづくり

■長女を保育所へ送り、カミさんと次女とともに公民館へ。いつも行われている火曜日恒例の「子育てサロン」へ久々の参加。

■「子育てサロン」とは、乳幼児を連れた親同士でお茶を飲みながら交流しあう場なのだが、参加者はほぼ決まってお母さんばかり。オトーチャンが参加することはめったにない。でも、子育てというものがいつまでも「母の専業」であってはならないと思うので、僕は今後もできる限りこういう場に出たいと思う。

■こうした平日昼間の集まりに参加出来るというのも、僕の特殊な職業形態ゆえであって、つまり、僕のようなオトコがサロンにいるということは例外的といえば例外的だ。きっと僕の参加が、通常参加されているお母さん方には小さな緊張の種になってしまうかもしれないとは思う。でも、そうした緊張がいつかいい方向に変質して、子育て・子育ちというもののプラスになったらいいなぁと思っている。

■さて今日は、我が家の次女と同じ病院で、奇しくも全く同じ日に生まれた友人K家のSちゃんがサロンに参加していた。ともにもうすぐ1歳の誕生日を迎える。我が家の次女は、おともだちと会えて楽しそう。よかった。

■その後、昼過ぎ家に帰り、仕事。メールチェックをすると、町民活動支援センターのMさんから、センター主催の講演会へのお誘いメールが来ていた。今夕6時から「これからの農業とまちづくりを考える研究会」。時間もとれそうだったので、参加することに。

■この講演、根室地方のある町で、地場産業を生かしたエコツーリズムや環境教育事業を展開するNPO団体の職員を講師に招いての事例学習的内容だった。

■地元の者にとっては「あたりまえ」のことが、外来者から見ればとても珍しい、ということはままある。食習慣や景観然り、また農業技術然り。それをうまく観光や地域活性化、また地域の潜在的資源の掘り起こしにつなげていこうという試みをそのNPOは足掛け20年続けている。そしてその実績は、昨今、NPO団体の取り組みとして表彰を受けるほどに充実しているという。そこから我が町の市民が学ぶ事はないだろうか、というのが講演企画の趣旨だった。

■このNPOの成功事例を聞いたからとて、一足飛びに我が町でも事業が立ち上がり、ましてやそれが成功を収めるなど無理な話だ。しかしこうして「外の風」を呼び込むことで事がゆるやかに動き出し、いつかこの町の住人が今以上にいきいきするといいな、と思う。まちは自分達で作るものだし、そうしたまちで主体的に生きていくのは、きっととても楽しい事だろう。

■実際、講演の後に参加者同士で行った短いワークショップでは、昔からこの町に住む農家さんと、僕のような新参者とのささやかな交流があり、それは本当にささやかではあったけれども、僕にとっては何とも楽しいひと時だった。

■ところで、じつは僕は、今回講師を派遣してくれたこのNPOには、数年前にとある仕事でお世話になったことがあった。今回講師に来られたBさんとは今日が初対面だったが、打ち上げの席で、その時の仕事のことや、当時地元で世話になった方々の話で盛り上がった。

■さらには、僕が今年の夏に函館の小学校ワークショップで大変世話になったNさんというかたが、その後そのNPOのある近隣町に移り住み、いまそのNPOと深いかかわりがあるということも判明。「北海道はせまいねー!」と笑いあったのでした。

■なるほど、きっとそんなふうに、まちも人のつながりも出来ていくのだ。やっぱり楽しい。

| 暮らし | 23:17 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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不都合な真実

■さっき、映画「不都合な真実」を観てきた。正直な感想を書こう。

■終始、政治臭、プロパガンダ臭のする映画だった。正直、もしこの作品を純粋に「映画」として捉えるならば、僕はあまり良い評価をしたくない。

■根底に流れる「善悪二元論」「ヒロイズム」「(ご都合主義的な)家族愛と愛国主義」「コマーシャリズム(コンピューターA社)」、またアジアへの「悪気は無いが根強い蔑視」が感じられて、公に向けられたドキュメンタリー映画と謳われているこの映画を観ながら、なんだかハリウッド制作の劇映画でも見ているような気分になってしまった。

■何より、ゴア氏を正当化する目的で、感情操作、また情報操作を意図するかのようなシーンがところどころ挿入されているのに参った。テーマそのものは大事なのに、それを扱う手法を見ているだけで、なんだか鼻をつまみたくなってしまった。

■僕が今アメリカという国に抱いてしまっている「偏見」に照らせば、ある意味では、アメリカのアメリカらしさを存分に感じさせてくれる映画ではあったと思う。

■そうは言いつつ、決して「見る価値の無い映画」だとは思わない。むしろ見る価値はある。

■この映画が発する政治臭や、(あくまでも僕の偏見に基づくところの)アメリカ臭の’良し悪し’や’好き嫌い’を超越して、この映画が切り口としている「地球温暖化」を代表とする環境問題は、やはりつまるところ極めて「政治的な問題」なのだということを、この作品を観ることで僕は再認識した。その意味で、僕にとっては少なからず勉強になったし、刺激になった。

■やはり、環境問題は、政治問題なのだ。ん、当たり前か。

(まぁ、この映画の政治臭うんぬんに関しては、そもそも、多分ゴアさん本人は、この映画を敢えて政治的なものとして作ったのだろうから、それについて賛否を云々してもしょうがない。政治家である自分をメインキャストに据えたうえで、映画の最後では「この温暖化問題に対処するに相応しい政治家に票を投じましょう」とはっきり言っているのだから。)

■僕はこの映画を観て、やはり政治や政治的なものや動きと自らとの関わりを今一度しっかり見つめ直すべきだなぁと思った。それはもちろん、この映画の中でゴアさんが発したメッセージをどう判断し、この映画自体をどう受け取るかも含めてのことだ。

■ある「権威」から提示されたものを受け取るときに危険なのは、手に取り易い場所にしつらえられた美味しそうな果実をのみ、ぱくりと鵜呑みしてしまうこと。それが明らかに「善きこと」「良き物」「正義」と思えても、まずは一旦立ち止まって、自分の身体感覚でそれを吟味・検証する作業が、いま、絶対的に必要に思える。

■それは、その果実が美味しいそうなときにのみ気をつけていればいいのではない。「良薬口に苦し」を真に受けて、こんなに苦い薬を飲んだのだからひとまず安心!というのもまた危ない。その苦い薬の主原料は、じつはただの小麦粉だったりする(遺伝子組み替え輸入小麦だったらなおイヤだな…)。

■それをちゃんと踏まえた上で、僕は自分の身体感覚をできる限り稼動させて、「気候が今までにないスピードで変動している」という異変を知らせる情報に、冷静に向き合っていかなくてはならないと思わされた。

■身体感覚ということに関しては、幸い僕には、近隣の新得町や道南・大沼で農業をやりながらまさに自分の身体と知恵を頼りに生き方を切り拓こうとしている友人、諸先輩、知人が何人もいる。つい先日も道南でそのうちの1家族の世話になってきたばかりだ。それら「地に生きる人達」と今後もしっかりつながりを持ち続けることもまた、僕には大事なことなのだろうと思う。

■個人的には、環境問題とは、企業・業界に物申せない政治体制、その政治体制に物申せないマスメディア、そこから流されてくる「問題解決には個々人のモラル向上と日々の取り組みが大切です」という、もっともらしくはあるが解決への本気が全然見えない上滑りなキャッチフレーズ、そのそれぞれとどう決別し、またそれら相互の関係を自分のものとしてどう再構築するか。まずはそこに問題解決の糸口がある、と思っている。

■日記の冒頭ではこの映画について「映画としては良い評価をしたくない」と書いたが、温暖化について知らなかった情報をいくつか知り、また温暖化ということを切り口にして「やはり、まずは政治とマスコミ・マスメディアをなんとかしなくてはな…」と改めて思わされたという意味では、見て良い作品だったといえるかもしれない。後者に関しては、かなり反面教師的な意味合いも含まれてはいるけれど…。

■最後に、この映画のアカデミー賞受賞やゴア氏のノーベル平和賞受賞、また9.11事件やアフガン/イラク戦争というものを背景におきながらこの映画のワンシーン、ワンシーンを思い浮かべるときに湧き上がったもう一つの感想を書いておこう。

■それは「アメリカ、そしてアメリカ的社会の病巣は想像した以上に深いな…」ということ。

■「不都合な真実」の書籍版のほうはどうなのかな?

| 映画 | 23:54 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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年賀

■今日は午前中、家族とともに町内某所へ。年賀状に使う写真の撮影。

■我が家では、我々夫妻の結婚報告案内ハガキに使った写真以降、毎年全く同じ場所で全く同じ構図で家族の写真を撮ることにしている。かれこれ7年になる。

■いわゆる「定点撮影」というものだ。よくある写真の楽しみ方の一つだけれど、同じ風景のなかで家族の構成や個々人の様子が時を追うごとに変化していくのがよく分って面白い。

■ちなみに去年の写真では、次女を身ごもったカミさんのお腹が臨月間近でぽっこりと突き出ていた。それが今年は、カミさんは同じ風景、同じ立ち位置、立ち姿で、もうじき1歳になる次女を抱っこして微笑んでいる。

■じつはつい先日、毎年年賀を差し上げている友人から「小寺家の賀状、楽しみにしているんだぁ!」と言ってもらった。僕らもこの写真を毎年撮影するのが楽しみだ。

| 暮らし | 21:25 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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講演

■今日は十勝管内広尾町で行われた「Hiroo絵本フェスティバル」という催しで講演。

■企画してくれたのは広尾の私塾S舎。地元の子どもたちに勉強の場と活躍の場を…ということで、学習指導以外にもいろいろな取り組みをしているユニークな塾だ。その一環として、今年初めて大掛かりな「絵本フェスティバル」に取り組んだのだそう。その第一回目の記念すべき催しにに呼んでいただき光栄の至り、でした。

■しかし、今日お話した内容で、本当によかったのかな…。もちろん精一杯自分に期待されているであろうことを話し、表現したつもりではいるけれど…。これは、今日に限らず、講演やトークをさせていただいたあと、時折ふと思うことだ。

■いや、こんなことをブログでぼやいているようでは写真家など務まらないな。自信の有る無しに関わらず、写真を通して人様のまえに生身を晒す生き方を選んだのだ。前向きにいこう。

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写真はおふざけ

| 仕事 | 00:03 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

2007年11月 | 月別の日記 | 2008年01月


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