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2008年01月 | 月別の日記 | 2008年03月

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いろいろ

■3泊4日の韓国滞在から先ほど戻りました。朝鮮半島からの強制連行・労働犠牲者の遺骨返還団に同行させていただき、ドキュメンタリ映画の撮影をしてきました。

■その詳細は、北海道新聞WEB版など以下の記事よりご確認ください。

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/international/78576.html
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/78759.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080229-00000002-yonh-kr

■4日間は、半ば”仕事”、半ば”参加者”、いや、心情的にはほとんど”賛同者”して過ごしてきました。

■遺族の涙に胸が苦しくなりつつも、海を隔てた異国の市民同士が心を通いあわせる現場に居合わせることができたことは、とても意義深いことでした。

■ただ、本来ならばこうした戦中戦後の国策に伴う”過去の過ち”に対する清算・補償事業は、強制連行や強制労働の主体的当事者である国や企業が責任を追い、自主的にかつ率先して実現させなくてはならないはず。

■なぜそれが今回のように市民有志によるボランティア的活動として行われなければならなかったのか…。

■4柱のご遺骨が63年ぶりにふるさとにもどった事実を喜びながらも、本質的な問題はいまだに高い壁として目の前に立ちはだかっているのだということを考えなければなりません。

■ところで、

■先ほどTVを観ていたら、知り合いが相次いでNHKの番組に登場して驚きました。

■一人は占冠町に住んでいる写真家Mさん。もう一人は、同じ町に住むIさん。こんなことってあるのだなぁ。

■かくいう僕も、TVではありませんが、北海道の情報誌「スロウ」という雑誌の最新刊にちらりと登場しています。ご関心がおありの方は、どうぞご笑覧くださいね。
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| 未分類 | 21:29 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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札幌

■札幌に来ています。所属する写真家NPOの会議に出席。6月末に予定している会員4名による合同写真展の打ち合わせ。

■何を隠そう、僕も出展者の一人。今日は、ラフプリントを提示しながら自分の展示コンセプトなどを説明してきました。

■明日からは数日間、ドキュメント映画の撮影で韓国です。朝鮮半島からの強制連行・強制労働の犠牲者の遺骨返還事業に同行します。

■この撮影の仕事のせいだけではないのですが、札幌への移動中はもっぱら「生きる」ということについて思いをめぐらせていました。

■どう生きるか。なんのため、誰のために”今”そして”未来”を生きるのか(仮に未来があるとして…ね)。

■そして、生き方を選べるのだ、ということの贅沢について。また、その贅沢とどうむきあってゆくのか。つまり、やはり、どう生きるのか、ということについて。

■考えすぎだろうか…。

■さて、韓国から帰ってきたら、そのまま札幌に滞在して、市内レストランでの写真展の搬入、スライドショー、学校での講演会、5月のイベントの打ち合わせなどなど…。

■考えながら、でも、しっかり歩きながら、ということですね。

■そうそう、先日書いたフォーレ・レクイエムについての日記にコメントをくれた方がいました。その方は生演奏を聴かれたそうなのですが、やはり「絶品」だったとのこと。

■ああ、十勝にも、コルボさん、来ないかな…。

| 仕事 | 20:07 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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塚本こなみ

■午前中、洗濯物を干しながら、テレビを見た。NHK「課外授業、ようこそ先輩」。ゲストは樹木医の塚本こなみさん。

■母校の小学生達に、校庭に生えている木の中から「自分の木」を選んでもらうことから授業が始まる。そして、子ども達は1ヶ月間、その木と折々に向き合う。

■子ども達、素敵な体験をしたなぁ。

| | 16:20 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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もろもろ

■なかなかこの日記を更新できず…。

■何がそんなに忙しいのだか。確かに、確定申告や3月の写真展の準備など、やる事はたくさんあるのだが。でも、日記を書く時間くらい、毎日10分でも取ればいいのだけれど。

■先日、『クラバート』プロイスラー著を、遅ればせながら、読了。

■その次に読み始めてしまったのは、図書館の新刊コーナーで偶然目にした『死刑』森達也著。他にも”積読本”はたくさんあるのだけれど、つい借りてきてしまった。

■古典児童文学と現代ドキュメンタリ。ジャンルも発行年代も全く違えど、はからずして、”死”という名の”影”とどう向き合うか、という両著。

■持って生まれた、もしくは、図らずも身に帯びてしまった、はたまた、自分の行いが生じさせてしまったところの、いわば”業”とどう向き合うか。そして、それをどう克服し得るのか。

■たとえそれが運命的かつ生死に関わることでなくとも、僕自身もいま、自分の”業”とどう折り合いをつけてゆくかについて、日々、考えている。

■立ち止まって考えてばかりでは仕方ないので、歩くべき道のりを、歩むべきスピードで、歩むべきときに、両の足を使ってちゃんと歩きながら、考えていこうと思っている。

■…が、歩めば歩むだけ、その”業”の輪郭がハッキリしてくるような気がして、ちょっとおっかないのも事実。

■あらためて、こんな小さな人間とはいえ、人ひとりが生きるってのはなかなかどうして大事なのであるな、と感じざるを得ない。

■一昨日、2月20日は武満徹命日。彼がなくなったその日に、僕は北海道に乗り込んできたのであったなぁ。あれから12年。

| 未分類 | 22:04 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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指揮者/現実を作る

■今日は、某写真誌へ送る資料作成や写真展準備で、またも引きこもり。

■前の日記にも書いたが、最近家にいるときには、クラシック音楽を聞く事が多い。今日もPCに向き合いながらフォーレの「レクイエム」をなどを聞いていた。

■いま我が家にはフォーレのレクイエムのCDが2枚ある。一枚は、ミシェル・コルボ指揮/ベルン交響楽団による1972年の演奏。もう一枚は、つい先日購入したデュリュフレのレクイエムとカップリングになったルイ・フレモー指揮の演奏。

■そもそもこのコルボ1972年演奏版を聞いたのがきっかけでこの曲が好きになり、それ以来、久しくこの版だけを愛聴してきたのだが、今回、フレモー版、いや、コボル版以外の演奏を初めてじっくり聴いてみた。

■いや、驚いた。全然違う…。はっきり言って、フレモー版は、聴けない…。

■空に向かいすうっと立ち昇ってゆくような真っ直ぐな透明感。凛とした清浄感、空気感。ゆっくりとたゆたうように満ちてはひいてゆく静かな感情のうねり。

■この曲から僕が感銘を受けるそれらの要素のそれぞれについて、明らかにコルボ版が勝って聴こえる。

■確かにこの2枚のCDのそれぞれの演奏は、演奏楽団も声楽の構成も違うし、録音環境だって違うのだから、聴こえ方が違ってあたりまえだろう。しかし、指揮者によって、曲から受ける印象がこんなに違うとは…。

■僕はそもそもクラシック通では全く無いし、それどころか、音楽一般についての造詣そのものも、謙遜抜きで、かなり浅い部類に入るだろうと自認している。だからきっと、クラシック音楽に親しんでいる方に言わせれば「何をそんなに驚いているの?」というような程度のことかもしれない。

■指揮者が違えば曲が違って聞こえるのは当たり前で、むしろそれが無ければ「指揮者」の存在理由は半減するだろうし、また、聴衆にとっては、その違いを楽しむのこともまた音楽鑑賞の醍醐味なのだといえるのだろう。

■でも、僕にとっては、この演奏の違いは、ちょっと大きすぎた。

■ネットで調べてみると、このコルボ/ベルンの演奏は、フォーレ・レクイエムの中でも評価が非常に高いようだ。”名盤中の名盤”とのレビューがいくつもヒットする。

■僕は偶然その名演奏に最初から触れることができ、それを自分の中のスタンダードとしてきたわけだ。それが「幸」だったのか「不幸」だったのかは、僕には分らない。でもこれを機に、コルボ版レクイエムが僕にとって益々大きな存在意義をもったことは確かだ。

■音楽って、面白いな、と思う。今日も改めて音楽というものを見直した。

■音楽って、ほんと、生モノなんだな。だからこそ面白いし、すごいのだな、きっと。

■では、写真って、どうなのだろう…。考えてしまう。

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■晩飯のあと、町内某所へ。「まちづくり」についての有志懇談会。

■いや、「懇談会」などと書くと堅苦しすぎる。じっさいは、互いに持ち寄った美味しいものをつつきながら、和気あいあいと夜更けまでおしゃべり。

■「こんなことできたらいいね!」と、夢は大きく、前向きに。こういう集まりは、やっぱり楽しい。

■足元の「現実」にばかり目をやって、下を向いて、後ろを向いて、他人の揚げ足とりや「ダメなこと探し」に終始する時間は、苦しすぎる。

■もちろん、現実をないがしろにして良いとは思わない。所詮、皆、現実の中で生きている。

■今夜話した事柄にしても、楽しい理想の手前には、高くて大きく、複雑に入り組んだ「現実の壁」がある。

■こうして偉そうにモノを言う僕個人の生活に関してだって、足元にはいつでもヒタヒタと現実の冷たい波が押し寄せている(ああ、寒いよ、冷たいよ…笑)。

■でも、すでにある現実に丸のまま身を委ねることを自らに許し、現実を越えることを自ら諦め、そのなかで現実へのグチと自己弁護、損得勘定に明け暮れて一喜一憂して生きるのは、少なくとも僕の性には合わない。

■仮にダメな現実があるとしても、その上に”ダメじゃない現実”を創りあげる希望を抱けるのが、類まれな想像力をもったヒトという生物の、素晴らしい特権のはずだ。

■しかもそれを、意図して”楽しく”やってこなすことができるのだ。人間て、すごい。

(ただし、そういう「希望を抱けるに充分豊かな周辺環境」を本人が持ち合わせているか、もしくは、それを他者によって奪われてしまってはいないか、という問題はあるけれど…。いわれの無い偏見、構造的な貧困、劣化ウラン弾やクラスター爆弾によりその環境を奪われている人々・子供達のことを思う…)

■前向きの人々と希望を語るのは楽しい。そんな人達と互いに助け合いながら、自らの現実くらい、自らの手で時間をかけてコツコツ作っていけばいいではないか。「現実」って本来、そういうものだろ。…そんなことを改めて思った夜だった。

| 未分類 | 23:55 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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■昨夜遅く、NHK「SONGS BESTセレクションII」をみた。これまでに出演した歌手の代表曲演奏のオンエア映像を選りすぐり編集した総集編だった。

■僕は単に、矢沢栄吉と布袋寅泰のいわゆる”コラボ”が観たくてテレビをつけていたのだけれど、他の歌手の演奏にもつい引き込まれて、結局全部を観てしまった。

■出演者の一人である徳永英明も番組中で言っていたが、「歌ってすごいな」と、僕は思った。そして、歌を紡ぐ人間の精神、それを外界に発する人間の肉体、つまり”歌を歌う生き物”である人間存在そのものに対して、「あ、すごいな」と思った。

■「ことば」はそもそも本質的に”有限”で、つまり、思い切った言い方をすれば、世界に対してあまりに貧しい。でも、それが”うた”となったとき、不思議なことに”ことば”は、有限性をそのまんま帯びたままで、世界の高み・深みの極みまで軽やかに飛翔する。

■そうした”うた”を生み出し紡ぎつづけてきたこの人間という存在の不思議とすごさを、たかが”J-POP番組”ではあるけれど、僕はなんとなく感じてしまったのだ。

■最近クラシックの声楽曲をよくきくのだけれど、それらを聞きながら思いつづけていることがある。それは、とても乱暴な言い方をすれば、”うた”って、写真も含めたあらゆる「表現行為」のなかで最も濃密かつ純粋かつ高度に世界と繋がり得る媒体なのではないか、ということ。

■なにより、「身体性、一発」っていうのが、すごさの由縁だろう。ときどき「ある意味で、写真は到底歌にはかなわんな…」などと思ってしまうこともある。比べることのナンセンスを分りつつ。

■…うーん、自分でも何を書いているんだか分らなくなってきたぞ…。

■でも、やっぱり、歌は凄いよ。そして、歌を歌う人間は、すごいよ。と、そんなことを思いながら過した、素敵なTV鑑賞の1~2時間だった。

■それに比べて…

■今日、某所で過した2時間は、ちょっと疲れた。同じく、”人間”の肉体から発せられることばに2時間さらされつづけたのではあるが…。

■ただ天上の声に耳を澄まし、理想をのみ語り、霞を食らっているだけでは、きっと生きてはいけないし、そもそも世界は清濁まざりあってはじめて成立するもの。それはそれでわかってはいるのですが…。

| こども | 23:45 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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諸々忙しく…

■ここ2~3日のあいだはもっぱら、3月に札幌で行う写真展の準備、資材の手配など細々した仕事に忙殺されている。

■その合間に、昨日の午前中は、町公民館で町内の子育てネットワークの仲間と会議。

■6月に町内で開催予定の子育て講演イベントの第1回企画会議。まずは「何のためにこのイベントを持つのか」というコンセプトのところから。なかなかいい話し合いが出来た。

■若いお母さん世代ばかりが中心メンバーになってしまいがちなこういう話し合いの場に、今回は、僕も含めて3名の30代男性の参加があった。これは、それ自体で大いに価値あること。今後の展開が楽しみだ。「子育て・まちづくり」の動きの中に、もっと男性を。

■会議の後、午後、帯広市内の企画会社P社で、P社が発行するアート情報誌の取材を受ける。

■その後、いつも世話になっているカメラマンSさんのところに寄り、最近の仕事事情などおしゃべり。

■Sさんは主に学校のアルバム写真を中心に仕事をしているが、子供の絶対数の減少、学校の統廃合、また同業者内でのパイの奪い合いと価格競争で、なかなか厳しそう。

■どの業種・業態でもそうだと思うのだけれど、僕も含めた中小の自営業は、まだまだこの先も”踏ん張りどころ”がずっと続く。先日京都で世話になった書店さんの「書店仲間がどんどん廃業していくんだよね…」というお話も、切実なものだった。いろいろ考える事が多い。

| 未分類 | 14:54 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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美味い野菜を食べて考える

■昨日の夕餉には、一昨日の日記にも登場した愛媛の野菜箱の中から、ごぼうをいただいた。「大浦太ごぼう」というそうな。直径3~4センチ。確かに太い。たっぷり赤土にまみれているのが、また嬉しい。

■ごぼうの歯ごたえが楽しめるくらいの太さの細切りにし、おととい買ったひき肉の残り、あと、「野菜箱」に入っていた大根の葉(この葉がまた元気!)とともにゴマ油でちゃっちゃと炒める。で、すりおろした人参と少量のだし汁をいれ、砂糖、塩、醤油で味をつける。最後に水溶き片栗粉でごく軽くトロみをつけて、「変則きんぴらごぼう」。

■ごぼうは、もちろんあく抜きなんてしません。歯ごたえがしっかりありながらも軟らかい(?)ごぼうを、奥歯で噛み締めると、野菜の美味さが染み出てくる。うまい。主菜のはずの焼きサンマがまったく存在感なし(ま、冷凍サンマだからしかたないか…)。

■連日、愛媛の元気野菜の日記になってしまった。

■しかし、こうして、心を込めて作られた、作り手の顔の見える食べ物を食べると、やはり「食」、そして「農」ということに深く思いを馳せたくなる。

■いまや、「食」と「農」は、市民のちょっとした関心事となっている。近年、様々な取り組みもなされている。

■ただ、「食育」「スロウフード、スロウライフ」などと、社会をあげて色々と取り組むのはもちろん良い事だ思うのだが、でも、それがどこかで「掛け声」だけになっていないかどうかが気になる。単なるファッションに終わってしまっていないだろうか。

■これは、サミットを控えての「環境」「エコ」の大合唱についても、またしかり。

■僕は、「環境」「食」や、特に「農」に関しては、つまるところ、深く政治の問題だと思っている。個々人のライフスタイルや嗜好がどうだという問題ではもはや無い。

■もちろん、個人の努力の積み重ねも大事だし、そこから政治的なものへと社会意識が醸成されていくことだってある。だけれども、、いまの「商業的情報化社会」にあっては、個人の嗜好やライフスタイルなど、コマーシャリズムのなかでいいように操作されてしまうことを忘れてはいけない。

■いま巷をにぎわしている農薬混入ギョウサ問題にしても、本質的には、この件の「事件性」を越えたところで、そうした「食」と「農」に関する”政治の本気”の有無を問うているように思える。

■餃子問題、はやいところ「犯人探し」にけりをつけ、より根本的な問題に突っ込みをいれたいものだ。僕は、ごぼうを噛み締めながら、そして、それを手塩に掛けて育てた愛媛の友人夫婦の暮らしぶりを思いながら、とりとめもなくそんな事を考えた。

| 暮らし | 09:43 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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野菜

■先日の愛媛県での講演でお世話になった友人夫婦(百姓をしている)から、大きなダンボール箱に入った荷物が送られてきた。

■箱の中には、有機農法で育てれらた、見た目からして「元気」な野菜たちがドッサリ。これを食べれば間違いなく元気になれる、そんな気がする野菜だ。

■今朝は菜の花のおひたしのあっさり胡麻和え、夕食は「おふくろ大根」をひき肉と味噌仕立てに煮ていただいた。

■大根の煮汁が飛び切り美味しくてビックリ。だしをとった昆布の旨みにも負けない良い味が出ている。

■付け合せに、スケソウのたちと柔らかな長ネギを蒸し、さっとポン酢をたらしてただく。野菜と一緒に送ってくれた愛媛のゆずの皮をちらして。ああ、いい香り。ご馳走様でした。

友人夫婦の農場のブログ
「天然酵房やまそだち」

| こども | 19:29 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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備忘録

■夜更かしついでに、備忘録。

■西日本旅の最中にゲーテ「色彩論」を読む。訳に難儀しながら帰りのフェリー内でなんとか読了。共感多し。

■特に青=闇にもっとも近い色彩と黄=光に最も近い色彩)とが共に過不足無く”混合”したのが緑、つまり、闇と光のあわいに生じるものが「緑」、という色彩観。

■「光の側」と「闇の側」は「生」と「死」にも通じ、その”混合”、その”あわい”こそが「緑」だと。

■緑は、僕にとって、「木々」「森」を象徴する色彩。

■天と地のあわいに立ち、生と死を具有しながら立つ、木。そして森。ふむ、合点。

■また、旅行途中に交わした、尾道S家のDくんや大阪Aさんとの「境界」についての会話。道祖神と地蔵信仰。峠。鳥居と、鳥居の下を流れる水路。境界=あわい。

■天橋立の宿で同室のNさんと交わした武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」についての会話。響きと沈黙のあわいに立ちのぼる音というもの。

■A子との夜更けまでの会話。肉体感覚が死別による喪失感に関して持つ意味、について、A子の感慨を聞かされハッとする。詳細は割愛。ま、これは”あわい”とは関係ないが…。

■さらに関係ないが、昨日も、今日出かけてくる前も、もう少し娘に優しく接するんだったな。反省。

| 備忘録 | 00:49 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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ホームページ/善悪を知る焼餃子

■今晩は札幌泊。本当は日帰りのつもりだったのだけれど、つるつる峠道を夜中に走るのも怖いので、泊まることに。

■NPOの会議を終えた後、ヨドバシでうろうろしていると、友人で喫茶「M」店主Mちゃんから電話。

■僕に会いたい人がいるというので店に行くと、お初にお目にかかるHさんが。なにやら一つご提案があるとのことで、しばしお話を。で、ある件で盛り上がる。

■その話の詳細を明らかにするのはまたしばらくあとのことになる。でも、乞うご期待。きっと面白いことになる。

■ところで、Mちゃん経由でHさんが急遽僕に連絡をくれることになったのは、この不定期日記をみて僕の所在がわかったからなのだそう。「いま札幌にいるならば」と。

■ホームページ、恐るべし。

■ところで、餃子農薬混入。確かに大変な問題だけれど、冷静に。

■「特定の悪者が先にありき」で、「ほら、みたことか。だから中国人のやることは…」とヒステリックに騒ぎ立てることは厳に避けなければ。慎重に、冷静に、客観的・科学的に原因の究明を。

■でも、こと中国や”北朝鮮”に関する対応を観ていると、日本人(というよりも、僕ら人間)って、本来こうした「ヒステリー誘引剤」となるような「悪者(ヒール)」の存在をいつも心のどこかで待ち望んでいるものなのかもしれない…とも思う。

■自分を正当化するために、とか、無意識下の同属意識を確かめるために、身近に「悪」の存在を必要としているのかも。そうだとしたら、なんと悲しい生き物なのか、人間て。

■そういえば、太古の楽園で、蛇のそそのかしにのってエバが食べ、その後アダムに食べさせたのは「ひとくち餃子」ならぬ「善悪を知る木の実」。

■そそのかしに乗りやすいのも、善悪二元論に逃げ込みたくなる弱さも、そもそもが、古今東西、我ら人間の本質なのかもしれない…。

■やはり、人間は、存在そもそもが悲劇なのか。

■そして、一部2チャンネラーのルーツは、古代メソポタミアにあり。

■あ、また、はなしが訳のわからない方へ飛躍しすぎた。

■でも、餃子の問題は、やっぱり、冷静に。”21世紀の失楽園”なんてことにならんように。

| 未分類 | 22:55 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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いろいろ

■帰ってきてからの3日間。

■ひたすら礼状書き(メール打ち)、3月写真展DM作りと入稿、その他事務連絡。つまり、また引きこもり生活。

■時折、保育所送り迎え、洗濯物干し、料理、皿洗い。

■今日は札幌だ。写真NPOの打ち合わせ。

■落ち着かない…。

| 未分類 | 07:59 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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