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もろもろ
■日にちが前後するが、最近の事を思い出しながら書こう。だいぶ長くなりそうだが。
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■18〜19日は道東で撮影。徳島からお客様がきた。ある県立施設で働くKさん。その施設で来年の3月に講演会を企画してくれているのだけれど、その前に「ぜひ一度、北海道で会って、いろいろお話したい」と、わざわざ撮影地まで来てくれた。
■一緒に森を歩く。いろいろ話す中で「呼吸」というキーワードで意気投合。「そうそう、結局、最後に残ってゆくのは”息”ですよね」と。
■最近の僕にとっては、まさに「息」が、写真に限らずいろんな事柄における大切なキーワードだ。
■最近この日記によく書く「ことば」だって、常に息とともにあるもの。じつは拙著『森のいのち』も、”息”で始まり”息”で終わる本として書いた。最近の写真展のタイトルは、「森の息、生命の像」。
■Kさんとは大事にしている部分が一致したので、来春のイベントはきっと大丈夫だろうと一安心。
■最後は帯広まで車で送り、六花亭本店でお茶をして別れた。
■20日は帯広市図書館で講演会。これについては当日の日記に書いたので略。
■21日は清水町某所へでかけ、友人Aさんの呼びかけで催された「もりをかたる集い」に参加。森に関心のある数人のひとたちで、じっくり森について話をしようよ、と。
■人にはそれぞれ、森との関わり方がある。集いの中である大先輩が80年の人生の中で森と間に築いた深い深い関わりあいの話を聴いて、ああ僕も、若い者は若い者なりに、もっとしっかりとこころで森を感じたいものだ、と思わされた。
■22日は、ドキュメンタリ映画「空想の森」完成お披露目上映会に参加。これも詳細は当日の日記に。
■23日。暖かな日曜日。午前は溜まった仕事を幾つか片付け、午後は長女と近所の公園で外遊び。春を感じる日差しのなかで、娘とブランコ、砂場遊び、自転車乗りに興じる。
■と、公園にいた見知らぬ年下らしき女の子が、自転車にまたがる長女を見て一言。「あのひと、自転車乗るの、おそーい」。
■その遠慮の無い一言に、長女、ハッとした顔でペダルをこぐ足を止めた。
■確かにまだ補助輪も着けているし、お世辞にも軽快に乗りこなしているとは言い難い。でも以前と比べて上達したのだという自覚は長女にもある。年長者としてのプライドってものも、もちろんあるだろう。
■さて、突然浴びせられたこのキツイひとことに、長女は一体どうするだろうか?
■ひねてグズりだすかな?それとも「自転車やーめた!」と投げ出すかな?…と黙って見守っていたら、彼女、何かを思い立ったように、急に真面目な顔して黙々と再びペダルをこぎ始めた。
■表情ひとつ変えず、ただひたすらに、公園沿いの50mほどの歩道を行ったり来たり、何度も何度も往復を繰り返している。さっきまで「おとーちゃーん!」などとふざけていたのに、今はもう、こちらを一瞥することもない。
■そのうちに、長女のこぐ自転車のスピードが、徐々にではあるけれど確かに増してきているのが判った。しかし、それでもなお長女は、無表情のままペダルをこぎつづける。ただひたすらに、黙々と、前を向いて。
■一体同じ道を何度往復しただろうか――。ふと、公園で遊んでいたあの女の子が長女の方に向き直った。そして言った。「あれ、あのひと、自転車、はやくなった…」。
■それを聞いて、ようやく長女の足が止まった。
■その表情は、黙々とペダルをこいでいたときとさして変わらなかった。その変わらぬ表情のまま、でも少しほっとしたような佇まいで、長女は、公園であそぶあの女の子を静かに見つめていた。
■その長女の顔が、僕には何故だかとても美しく思えた。そして、なにかこう、ポッと熱いものが胸にこみあげてくるを感じ、黙って長女の頭をなでなでした。
■その翌日24日、つまり昨日は、子育てグループの会議の日。6月に企画している「めむろハッピーフェスティバル」の企画会議。「こども」をキーワードに、子ども達当人だけでなく大人もいっしょにあれこれ楽しもうという「縁日」的な催しだ。
■いろいろと意見を出し合う。僕はイベント内の情報展示ブースの担当なので、いくつかの展示アイデアを発表し、意見をつのった。
■まず、町内の子育て団体の活動紹介パネル。あと、食育や地産地消のパネル展示もしたい。これはJAに協力を頼もうか。最近活発な町内小学校のPTA活動を紹介するコーナーも作るつもりだ。
■また、札幌にいる僕の友人が熱心に取り組んでいる「イラクの子どもたちが書いた絵画ポスター展」も、ぜひこのイベントのなかで実現したい。
■遠い遠い場所で、戦争で傷つき苦しい思いをしている子ども達がいる。でも、彼らもボクらも同じように日々泣き笑いしながら、心に希望の火をもしながら生きている。この広い地球で、同じこどもとして、同じ人として、かけがえの無い家族とともに、いま生きている――。
■この町のこどもたちにも、そんなことをちょっとでも感じてもらえたら嬉しい。
■さてどんなイベントになるかな。楽しみだ。
■今日は朝から在宅仕事。今週末から長沼・札幌・神奈川・東京と仕事で動くので、そのもろもろの準備。
■いつもの事なのだけれど、出張時期が迫ってからばたばたと準備を始めるので、余計に物事がはかどらず、時間が飛ぶように過ぎてゆく。
■関係者へのメール連絡やアポ取り、資料作成。普段から準備を怠らなければもっとスムーズにできるのにな…。要反省。しかも、時間がないといいながら、こんな長い日記を書いてるし…。
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| 23:09
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空想の森
■前の日記の”弱音”に対して、幾人かの方から「気にすることなし!」というご連絡を頂きました。本当にありがたいことで…。
■喋る本人としては「果たして、語るべきことばでしっかり語りきれたのだろうか…」と心配していても、それを聞いてくださった方々には、じつはこちらが望んでいる以上に充分真意が伝わっているということがあるのですね。
■先日の講演内容やお目にかけた写真が、少なくとも幾人かの方々にはちゃんと届いたことがわかり、ほっとしています。そして、単純な僕はそれでもう、昨日の弱音はどこへやら、今日はとっても元気です。
■さて今日は、帯広在住の友人・田代陽子の初監督ドキュメンタリー映画「空想の森」のお披露目上映会が新得で行われたので、出かけてきました。
■十勝・新得町に住むある2組の家族の日々の暮らしを丹念に取材した作品です。監督やスタッフが、登場人物たちの生活に入り込むようにしながら撮影をすすめ、クランクインから実に7年の歳月を経てようやく完成しました。
■僕にとっては、さまざまな個人的いきさつがあり、その完成がいつになるのか、そして何より、その内容がどのようなものになるのかがとても気がかりだった作品です。
■でも、監督本人が舞台挨拶で「いまできることはすべてやりきった」ときっぱり言い切ったとおり、淡々とした中にずっしりと内容のある、世に出す意義をもつ、優れた作品に仕上がったと思います。
■新得の風土とそこに生きる人達の日常の生活のなかに監督が見つめようとしたもの、表現しようとしていたものが、とても純粋な形で、暖かな情感をともなって、実に美しく写し取られていました。
■「ああ、真に豊かに生きるってのは、こういうことかもしれないな…」。ワンシーン、ワンシーンを観ながら、自分の中に自然とそんなことばが湧き上がってきます。登場している人々はみな、僕にとっても友人知人であるにも関わらず、です。
■念のため書いておきますが、僕がこの作品をここで好評価しているのは、それが”身内”の手による”身内”を描いた作品だからでは全くありません。
■もし”身内”である田代陽子が仮に”内輪ウケ”でしかないような中途半端なモノを作ってしまったのであれば、僕はその映画の完成をここにこのような形で紹介することもかなったでしょう。
■掛け値無しで言えます。この映画は、自らの足でどっしりと地を踏みしめる、自立した、確かな質感をもつ作品です。
■この不定期日記を読んでくださっている皆さんへ。
■もし近隣で映画「空想の森」の上映が行われるならば、ぜひご覧下さい。
■そして、約2時間のこの作品のなかに、「ともに生きることの豊かさ=土とともに・他者とともに・家族とともに・そして”自分自身”とともに生きることの素敵さ」をもし感じ取っていただけたならば、僕はとっても嬉しいです。
■生きるってのは、なかなかにいいものです。
ドキュメンタリー映画 『空想の森』
田代陽子監督作品/日本/2008年/ビデオ/129分
【上映予定】
帯広 4月5日(土)18:30〜 十勝プラザ レインボーホール
札幌 4月12日(土)19:00〜 エルプラザ3Fホール
東京 4月20日(日)19:00〜 文京シビックホール
*7月28日からポレポレ東中野(東京)にて公開決定!
| 映画
| 22:59
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講演
■最近、ことば・ことばとうるさいくらいに言っているけれど、今日こそはまさに、ことばを語ることの難しさを実感する日となりました。今日は帯広市図書館での講演でした。
■ことばを吐いているのは紛れもない自分自身の口だし、そこから出てくることばも確かに自分の中にあることばなのですが、どうも”心とことばの歩調”のようなものがうまく調和せずに、ギクシャクとしてもどかしく…。
■自分でも”今日はどうしたんだろう?”と、講演後、しばらく考え込んでしまいました。
■こんなことを言っては、時間を割いてわざわざ聴きにきてくださった方々に大変失礼なのですが…。
■すみません。今日は弱音の日記になりました。
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| 19:39
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訂正
■昨日の日記を読み返し、ああ、簡単に「想像を絶する」とか「無限大」などといってはだめだな…。と思った。そういう安直が危ない。気をつけないと。
| 未分類
| 11:14
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ワシ/クマ/空
■撮影で、森に来ている。
■いつも歩く小さな沢沿いを散策。重いクラスト状の雪はまだ30センチ以上の深さがあり、歩きにくい。
■細い沢の中ほどに、流れに下半分を洗われるようにして、オジロワシの死骸が横たわっていた。遺骸がまだキツネなどに喰い荒らされていないところをみると、まだ死んで間もないのだろうか。
■黄色く太いくちばしに、鋭くとがった爪。普段は間近に見ることのできない猛禽の最も猛禽たる部分を、すごいものだなぁ…と、まじまじと観させてもらう。
■ところで、いつもならこのあたりにはクマの足跡がペタペタとそこここに残されているはずなのだけれど、今日目にしたのはわずか1頭分のみだった。
■これだけ雪解けが進んだ頃だ。このあたりのクマたちはみな目を覚ましている頃だろう。なんでこんなに足跡がすくないのか…。
■しばらく歩いてくたびれたので、雪原に腰を下ろして休憩。
■目の前のアカエゾマツを見ながら、ふと考える。この一本のアカエゾマツの「表面積」はどれくらいになるのかなぁ――。
■”肺”という機関が肺胞という非常に細かな無数の小胞の集まりで成っていて、その肺胞一つ一つを開きそれぞれの面積を丁寧にトレースしてゆくと、その総面積はじつに60〜70平方メートルにもなるらしい…ということを生物の時間に習った。
■アカエゾマツの枝にびっしりと張り付くように生えている細かな針葉を見ているうちに、そんなことを思い出したのだ。
■アカエゾマツなど針葉樹は、肺と同じく、細かな単位面積の小葉を無数に生やすことで凹凸を増やし、日の光を浴びる総体表面積を増やす工夫をしている。きっと目の前のアカエゾマツも、その表面積たるや、僕の想像を絶するほど広いのだろうな…。
■そして、思考は一気にへんな方向へ飛躍する。
■例えば、この日本の国土の総周囲長、つまり海岸線の総延長距離ってのは、どれくらいの長さになるのだろう?
■適当な日本地図を広げて海岸線を丁寧にトレースしてゆけば、大まかな数字は出るだろう。でも、当たり前だけれど、それは全く本当の数字ではない。
■津々浦々の、複雑に入り組んだ入り江の、突き出た岩々の、そのでこぼことした表面の微細な凹凸までもを、どこまでもどこまでも顕微鏡レベルまで細かにトレースして行くならば、じつは、その長さは無限に等しい数字になるに違いない――。
(そもそも海岸線なんてものは常に不定なのだから、正確な総周囲長を測ろうとすること自体がナンセンスだけれど…)。
■ものはついでだ、と、さらにさらに考えを遠くへ飛ばしてみる。
■では、その陸と海との境界をなす岩なら岩の微細な”表面”を、分子レベルまで掘り下げていったらどうだろう。
■じつは、分子レベル、そしてそれをさらに分解した原子・電子レベルまで行くと、それぞれの粒子は粒子間の力で互いに距離を取り合いながらただ「寄り添っている」だけであって、互いに接してなどいない。ぷわぷわと浮いた状態で、規則的に整列しているだけだ。
■つまり、連続していないのだから、連続したものとしての”長さ”など、計りようがない。そこではそもそも”境界”というもの自体が消失してしまう。
■つまり、実態は「浮いている」、言い換えれば「空である」、としかいいようが無い。
■長さをたどっていったとき、無限大の先にあるものは、空だった。
■なるほど。なにがなんでも物事に境界を定め、それを数値化してやろうなどという行いは、まさに「空しい」行いなのかもしれない。空の空、一切は空。そして、色即是空。なるほどな。
■大事なのは、その”境界”なるものを越えたところにあるもの。そして、ついつい境界を求めようとする心の底に横たわっているものへの自覚。そういうことなんだろうな…。
■…と、ここまで飛躍を進めて、はたと、馬鹿なことばかり考えているいる自分の「空しさ」を改めて思う。
■アホなことに時間を費やさず、ちゃんと写真を撮ろう、と思い直したのだった。
| 森
| 11:48
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DIY追記
■2x4材には結構節が多い。節の部分は材が硬い。ノコを入れるにもネジ・釘を打つにも、厄介だ。
■でも、ネジ穴を打つ必要があった為、節にドリルを入れた。
■そのとき、ドリルの刃がわずかに材を穿つやいなや、そこから濃厚なマツヤニの匂いがムッと立ち昇ってきた。
■それはまぎれもない、木の”体臭”、つまりその樹の”生”の芳香だった。
■2x4材が、その香りを通して主張していた。たとえ木材になろうとも、樹はそもそも”生き物”なのだよ、と。
■節材にしろ、アテ材にしろ、人間がその扱いに困る材ほど、その主張は強く、また、ストレートに迫ってくるものなのかもしれない。
■それらは樹の生活の軌跡であり、「わたしはこういう環境の中でこうして生きてきましたよ」という、目に見える生の痕跡だ。その部分に、より濃厚にいのちのエッセンスが宿っていても不思議はない。
■ところで、もし工業産品のようにきれいに品質の揃えられた、節の一つもないような材を扱っていたならば、または、節という厄介物をとことんまで避けて作業をしたならば、僕はこんな気付きを得られただろうか――。
■ドリルで節に穴を穿ちながら、ああ、扱いやすいものばかりに囲まれていてはわからないことがあるのだな、と思ったのだった。
| 暮らし
| 12:07
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DIY
■昨日と今日は、某所でDIY家具作り。先に購入していた大判プリンタやラミネータを設置する為のスタンドや、畳一枚分くらいある広い作業台などなどいくつかを、2x4SPF材やランバーコア材などで作った。
■10年前に札幌から新得へ持ってきてそのままにしていた会議机の天板やちゃぶ台の天板も活用。「ゴミ」になるべきものが、役に立った。捨てないでおいてよかった…。
■それにしても2x4材は便利だ。ノコと差し金、ネジとインパクトドライバがあれば、設計図さえちょちょっと書ければ、あっという間にそれなりの構造物が出来てしまう。しかも、安い。
■しかし、安さの理由は、その材が輸入材だからだ。北米産のSPFだろう。そこのところを、些細な事などとは言わず、考えなくてはいけない。
■日本の「森林環境」のことを本気で考えるならば、道内産のカラマツや国産杉材などを使うべきなのだが…。
■と、日々、なにかにつけて言い訳をしながら、生きている。
■いや、やはり、今度なにか作るときには道内産カラマツ材を探そう。
■そんな、普段見えてきにくいこと、考えずに済ましてしまっていることが見えてくるのも、木工に限らずDIY=Do It Yourself、つまり”自分でやってみること”の大事な効能かもしれない。
■できれば、食べ物作りもDIY、子育てもDIY、自分の暮らしやいのちに関わること(平和もね…)の多くのことをDIYでいきたいものだと常々思っている(本来これを”百姓”という。いいことばだ)。
■でもやりたいこと全部をDIYでやっていたら、写真家稼業が成立たず。悩み多きこの頃…。
| 暮らし
| 22:28
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ことば
■韓国から戻った翌3月1日は、札幌で開催の写真展の搬入をしたあと、夕方からスライド上映会を行う。
■21名の参加があり、スタッフも含めて店内は一杯。イベント後の交流会でも、お残り頂いた幾人かの参加者の皆さんとゆっくり懇談でき、いい時間をもたせて頂きました。有難うございました。
■その懇談の中で印象に残ったことが。それは「ことば」についてのこと。
■ある方が「小寺さんは写真で表現する人だけれど、ことばも大事になさるのですね」と。
■確かに、僕は、ことばによる表現も写真表現と同様に大切にしたいと思っている。否、表現手段云々以前の問題として、ことばそのものに対してある強い思いを持っている。
■ちょっとオーバーな言い方になるけれど、僕は「この僕自身を形作っている諸要素は、単に血・骨・肉ではなく、”ことば”もまた欠くべからざるものとしてそこに数えられるべきだろう」というふうに考えている。
■つまり、僕というヒトは、その少なからぬ部分が”ことば”によって出来ているのだ――と。
■なぜそう思うのか。それには、些細ながらも理由がある。
■僕は時折、森のなかでヘンな実験を試みる事がある。それは「ことばに拠らずに”考える”ことができるか」という試みだ。自分の思いを一切言語に置き換えずに、あれこれ胸中で思いをめぐらしてみるのだ。
■じつは、これは、何度やってみてもかなり難しい。というか、僕には、できない。
■思索の”起点”となる事柄の一つ二つくらいならば、言語によらず、映像イメージ的なものとして思いうかべることはできないこともない。
■しかし、そこからいざ思いをめぐらせ、深く思索の道程に足を踏み入れようとすると、途端にあたまの中は”ことば”で満たされていく。もうどうしようもなく、僕の母語である日本語がどこからとも無く湧き出してきては、勝手に僕の思いを形作ってしまうのだ。
■この経験を経て、僕は、”ことば”というものが、ことばを繰る動物であるところのヒトの存在や行動の様式に対し、いかに強い影響力をもっているかを痛感せずにおれない。
■少なくともこの僕に関しては、いまや、たぶん”ことば”なくしては、明日の自分を「小寺卓矢」として生かしてゆくことは出来ないだろうとさえ思える。
■きっと、僕は日々、ことばを食べ、ことばを消化し、ことばを糧にしながら、生きているのだ。僕の中に蓄積されたlogosが、僕の生命活動のlogicを決定しているのだ。きっと、僕にとっては、ことばは肉に等しい。
■それだから、翻ってこの僕自身がどんなことばを世界に吐き出すのかについても、出来る限りにおいて丁寧でありたいと僕は思っている(ま、実際に丁寧でいられているかは別として…。現に、この不定期日記におけることばの濫用・浪費については、大いに反省を要する…笑)。
■…と、そんな事を日頃から折に触れて考えているものだから、「小寺さんは写真家だけれど、ことばも大切にするのですね」という問いかけ、もしくは感想のことばが、その交流会の席でも特に心に残ってしまったのだった。
■ことばは確かに大切だ。しかし、と思う。写真家として今後ことばとどう向き合ってゆくのかについては、一度ゆっくり考えてみる必要はあるのかもしれない。
■これまで同様、ことばに信頼してそれを御し、反面、それに御され続ける身で居続けるのか。それとも、いっそのこと、ことばの向こうに広がる世界に果敢に漕ぎ出してゆく努力をするべきなのか――。交流会のあと、一人になってから、しばし考えてしまった。
■”ことば”についての思索は、その翌日も続く。
■札幌からの帰路、長沼町の絵本店「ぽこぺん」に立ち寄った。店主のUさんとあれこれ歓談を楽しむ中で、Uさんからある本を紹介された。
■竹内敏晴著「ことばが劈(ひら)かれるとき」。幼年期以来の聴覚障害を青年になって克服し、それから”ことば”を獲得していったという著者の稀有な経験を元にかかれた本だという。ヒトがことばを獲得するとはどういうことなのか、という本。
■Uさんとはその時、特に”ことば”に特化した話をしていたわけではなかったはずだ。しかし、なぜかその本が紹介された。そして、さらに不思議な事には、そのとき僕の鞄に入っていた本(ほんの数ページを読んだだけで、これから更に読み進めようと思っていた本)が、なぜかなぜか、その竹内敏晴の別タイトルの著作だったのだ。
■「ええ、なんで?」と、Uさんとともにこの妙な符合に驚きつつ、でも僕は、ああ、いまは”ことば”と人間存在について一生懸命考えろ!とカミさまがいっているのだなぁと、変に納得してしまった。
■で、ぽこぺんから芽室へ帰る道中は、とにかく、logosとlogicという単語が頭を駆け巡っていた。
■また、「はじめに言(ことば)があった。言は神とともにあり、言は神であった。」とか「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」とかいった聖書の”ことば”たちが、いまさらながらに思い浮かぶのだった。
■ことば、ことば、ことば。いま僕は、ことばに囚われている。ことばって、不思議だ。
| 未分類
| 16:48
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