小寺卓矢・森の写真館 top_image
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2008年03月 | 月別の日記 | 2008年05月

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積読

■読みたい本、読みかけの本が、とにかくいっぱい…。

■書店で思わず手にした、書評で興味を惹かれて取り寄せた、他の人からお薦めされた、著者と会ったのでその記念に…などなど、その他いろいろ、僕の手元にはいま、購入したが読み進める事ができない積読本がいっぱい。その数は日に日に増えていく。

■先日東京に出た折、僕がその本作りに心底惚れている出版社Y社の編集部を訪ねる機会があった。仕事の打ち合わせもそこそこに、展示本の書棚に張り付くようにして物色、悩みに悩んだ挙句に購入してきたY社の数冊。でも、いまだに目次にすらも満足に目を通していない…。ああ、早く読み始めたいー!

■仕事、日常の家事と育児…とにかく、落ち着いて本を読む時間というものがほとんど取れない。特に、次女の体調が悪く保育所にいけていないここ1週間ほどは、昼間できなかった仕事を深夜にやることになるので、なおさら読書に割ける時間が減る。いっそ長期で撮影に出かけてしまえば、かなりの量を読むことができるのだけれど…。

■本当の読書人は、1日に3冊は読むことができるというが、いったい、どうやって時間を作っているのだろう。読書の秘訣、教えて欲しいなぁ…。

■小寺の積読本リスト、一部紹介。いまこんな本を読んでます。否、”積んで”ます。(順不同)

・カブールノート ・コトバ/言葉/ことば ・ことばが劈かれるとき ・自然のメッセージを聴く ・判断力批判 ・僕が見てきた戦争と平和 ・クスノキと日本人 ・人はなぜ花を愛でるのか ・学校開放でまち育て ・資本論 ・風と大地と ・時間をほどく ・アイヌ祈道全集 ・唯臓論 ・静かな大地 ・北方諸民族の世界観 ・草枕 ・東北学第二号 ・自由教育をとらえ直す ・乱世山城国伝 ・木地師と木形子 etc...
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今日の備忘録

■人の話は最後までちゃんと聴くこと。大事だよな…。受け止めることなしに投げ返すことはできない。難しいものだなぁと痛感。自戒を込めて。

■その点、今夜のYさんとの初対面は、素敵な時間だった。Yさん曰く、「ウコ・チャランケ(アイヌ語で「互いに・討議する」の意)が、ほんとに大事」。

■ウコ・チャランケは、言葉による徹底的な討論で”白黒”つけるというアイヌプリ(アイヌ民族のやり方)だけれども、Yさんがいうには、ただ自分の言い分で打ち負かし勝敗をつけるのではなく、言い負かした相手の”逃げ道”を用意しておくこと、つまり相手の言い分もきちんと認めることが”ウコチャランケ”なのだと。

■ただ主張するのでなく、受けいれ、受け止めることの大切さ。

■森の木々は日々僕にそれを教えてくれている。木は凄い。あらゆるものを受け入れながら、数百年同じ場所でたち続けているのだ。それで居て、しっかり自分というものを生きている。

■なかなか難しいことだけれど、ちゃんと受け止め、その上で主張できるようになりたいものだ。

| 未分類 | 02:40 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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長いもの

■論旨としては、前回の日記と全く一緒になるが、改めて思っている事を書こう。

■「長いものに巻かれる」ということから如何に自分の身を遠ざけていられるか。そのことに如何に自覚的でいられるか。

■”長いもの”が”巻き取ろう”としている気配を、如何に敏感に感じ取れるか。その感受性を錆びつかせないようにすること。

■長いものに巻き取られることの安楽さや”気持ちよさ”を「そんな安楽、いらない!」と笑って蹴飛ばせるように、生活と精神の”足腰”をちゃんと鍛えておくこと。

■大事だよなぁ。安楽をつっぱねるのは、なかなか出来ないけれど…。

■そうそう、昨日まで撮影に出かけていた。

■例年よりも雪解けが格段に早いとはいえ、いつも通っている道東の森は、まだ雪がたんまり残っていた。

■そんななかで、日当たりの良い斜面で、雪解けの下にフキノトウやフクジュソウを見るのは、本当にこころ躍る。

■なんと美しく、そして、なんと力強い眺めだろう。毎年の事なのに、強く強く胸を打つ。

■強いってのは、じつにしなやかでやさしく、美しいものだなぁ――そんなことを考えたりもする。

■この弱き一人間のように「つっぱねる」だとか「錆びつかせない」だとか、ことばで自らを諭すようなことはせず、ただそのように在って、しかし、そのように強いものたち。

■植物って、やはりすごいな、と思う。

■昨日発売の雑誌「フォトテクニックデジタル」に、写真が載りました。しなやかで強いモノの写真です。ちなみに、僕の中での裏タイトルは「広隆寺」です。

| 未分類 | 00:44 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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オルタナティブ

■ここ最近身の回りで起こる出来事、関心事については「選択肢」ということばがついてまわる。

■近々の我が町での出来事のうち、ひとつ例をあげるとすれば、「立つか・座るか/歌うか・歌わないか」。

■これに限らず、選択肢をきちんと用意しておく事、それを選択する自由を妨げられない事の重要さを、最近特に感じている。それは、自分自身の生活そのもののあり方についても言えることだが。

■「主流や多数派、または既成事実がすなわち”正”である」という幻想の誘惑から、いかに意識的に遠ざかれるかが、とても大切だと思えるのだ。

■この幻想の誘引力は、恐ろしく手強い。意識して地に脚をつけて立っていないと、すぐに吸い込まれてしまう。気をつけないと。

■さらに言えば、主流ではない「もう一つの道」=オルタナティブを、いかにして自らの手で、または他者との信頼関係のもとに、具体的なものとして作り出していけるかどうかも、肝要だ。

■じつは、ある意味では、それを実践したいからこそ、僕は”写真家”などという肩書きを自らに付加させて生きているのかもしれない。

■ま、自分の”写真”云々はさて置いても、オルタナティブと、それを尊重し育もうという余裕があまりにもなさ過ぎるように思われる昨今の身の回りの出来事をみるにつけ、僕はつくづくそんなことを感じてしまうのだった。

■そうそう、12日行われたドキュメンタリ映画「空想の森」の札幌上映会が好評のうちに終わったようだ。よかった。ここからどんどん広がっていくといいな。

■じつは僕は、この映画、また、監督を務めた田代陽子を、実に筋の通ったオルタナティブ体現物/具現者だと思っている。未見の方は、ぜひどこかで観てください。

4月20日(日) 東京・文京シビックホール
7月26日から 東京・ポレポレ東中野

| 未分類 | 16:41 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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泥の河

■また、先日の東京の話し。

■在京最終日の5日。飛行機の時刻が夕方だったので、日中、編集社Eさん、友人Yさんと待ち合わせて、東中野にある映画館「ぽれぽれ東中野」で開催中の「小栗康平監督特集」を見に行く。

■その日の昼の回で上映されたのは「泥の河」。1981年公開。小栗監督30代半ばのデビュー作だ。

■僕は、だいぶ前から小栗監督に関心を持っていた。

■しかし、実際のところ、小栗作品はこれまでにたった一本しか観たことがない。「眠る男」。しかも、もう10年以上前のことだ。でも、その時に受けた衝撃は今も覚えている。

■良い意味での「なんなんだ…これは…」という感慨。そこで受けた強い強い刺激は、じつのところ、それ以降の僕の写真活動を、精神的側面から弱からず後押ししてくれている。

■そんな(僕にとっての)衝撃作を作る監督の、その他の作品が観たい!と思いながら、気が付けば長い時間が流れてしまっていた。

■今回の「小栗特集」企画は、小栗作品全作を順番に上映し、さらには、週末企画として監督とゲストによるトークショーも行っていた。その日のゲストは「ぽれぽれ」のオーナーでもあり、写真家・映画監督でもある本橋成一さんだった。

■トークももちろん良かったのだけれど、やはり、映画が良かった。

■昭和30年代の大阪。ある河のほとりで出会った少年二人と、その家族が過した、ほんの短い夏のひとときの出来事。

■しかし、そこで立ち現れる「生というものが背負い込んでしまった”痛み”」の数々が、主人公の少年だけでなく、その物語を覗き観ている僕の胸にもツンと刺し込んできて、切なくなる。

■現代の、歴史や人の営みの最新の”上澄み”だけを享受して生きているかのように錯覚している僕自身の内にも、きっとその”痛み”の源は、まるで川底に厚く積もるヘドロのようにして、確かに横たわっているのだろうな――そんなことを感じた。

■ラストシーン。主人公の少年の内にきっといつまでも消える事の無いであろう”痛み”を残して去ってゆく「船」に、僕は、流れ来て、また流れ行くという、生命の「流転」の様を観たように思う。

■それは単なる”繰り返し”なのではなく、常に変容を遂げながら、ねじれるように、重なりあうように続いてゆく、多重螺旋のシークエンスだ。

■どこから来て、何を残し(または残さず)、どこへ去ってゆくのか――それはじつは、後作である「眠る男」にも通じる、人間存在への問いかけのようにも思えた。

■「泥の河」。テーマも演出も、なかなか重厚な映画だった。そして、なぜ小栗監督はこの重たい内容の原作をモノクロームで描き、それを自らのデビュー作としたのか、その意味を考える余韻をも十分に楽しめる作品だった。

| 映画 | 00:30 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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在京日記、まとめて一気に

東京から引き上げてきて、いま札幌にいる。在京中の備忘録として以下にいくつかの印象に残ったことを書こう。

■上京直前、北海道長沼町

「名前は、呪いですね」とある若いお父さん。そのとおり、と痛く同意。名づけとは呪術を施すことなり。いや、名づけに限らず、親はそもそも子にとっての”呪う者”かもしれない。呪う者としての覚悟を腹の底に秘めつつ、親は子とともに歩めるか。


■下北沢

あるイベント会場で引き合わせてもらったドラマーHさんが、今度わが町で有志仲間と企画中のめむろハッピーフェスでライブ出演依頼しているミュージシャンKさんと親しく仕事をされているとのこと。ささいなことかもしれないが、これで、ハッピーフェスがまた一つ楽しみになった。


■東京・市ヶ谷~九段下

市ヶ谷でカメラ雑誌の打ち合わせ。その後、靖国通りの桜並木があまりにも美しく満開なので、それを愛でながら、徒歩で九段下方面へ。

初めて靖国神社へ寄ってみた。境内には、これでもかといわんばかりに植えられたサクラ。戦没者を祀るこの場所に、こうまで徹底的に桜を植えることの意味とは…。

僕はやはり、広義の”呪術”ということについてについて考えざるを得なくなる。その枝、花びらの一枚一枚に、ずっしりと重い意味を負わされてしまった桜を、そっと見上げる。


■鎌倉

いつも世話になっている絵本作家Nさんを訪ねて鎌倉へ行くことになっていた。それを、札幌で久しぶりに会った知人に何気なく話すと、「鎌倉へ行くなら、ついでに、長谷でカフェをやっている私の友人も訪ねてみて!」と。で、行ってみることに。

長谷駅で降りて、教えられた道順を歩く。と、目的のカフェ直前になんだか雰囲気のいい神社さんが。うららかな春の日の下で桜の花や神木の巨木がやさしく「おいでおいで」をしている。つい寄り道を。

なんだかいつまでもそこにいてしまいそうな居心地の良さだったのだが、いや本来の目的はカフェ!と思い直し、境内を2回り程したのちに、神社をあとにした。

で、カフェについてみると。おお「定休日」…。店舗の中もひっそり静まりかえっている。

ま、こんなこともあるさ…と、あきらめて先を急ぐことに。でも、人の紹介できたのだから、せめて書置きでもしていこうと思い直し、自分の名刺に短いメッセージを書くことにした。

「札幌の知人の紹介で…」とあれこれ書いたのだけれど、なんだかうまくまとまらない。で、2枚目を書いていた、ちょうどそのとき。カフェの玄関先にキキッと止まったママチャリが。

ハンドルを握りながら怪訝そうにこちらを見つめていたのは、ちょうど買い物からもどったカフェ店主Fさんだった。

手短に挨拶をし、ここに来た経緯を告げると、「店の中は、今日は”家モード”で、洗濯物が干してあったりして入れないのですけど、ちょっと冷たいコーヒーでも…」と。で、とおりに面した玄関先の石段に二人で腰を下ろし、暖かな春の青空の下でしばしお喋り。カナダのこと、アラスカのこと、などなど…。

しかし、話しが進む中で、驚いたことが判明。なんと、今日僕が会う予定になっている絵本作家Nさんと店主Fさんは、以前からよく知っている仲だというのだ。単にカフェの店主と客の付き合いなどではなく、それ以前の交友関係があるという。ええ?この広い鎌倉で?

人との出会いとは、じつに不思議なものだ。

NさんとFさんが知り合いだったというのもなんだか充分おかしな話だけれど、よくよく考えると、もしも僕が神社に寄り道していなかったら…、とか、名刺のメッセージを書き直していなかったら…、とか、そもそも札幌の知人に鎌倉訪問の計画を知らせなかったら…、きっとこの店主Fさんとの出会いそのものがなかったのだろうな、と、不思議な気持ちになる。

さて、その夜はNさんと歓談。小町通の裏路地の焼き鳥屋で。Nさんの娘さんも合流。いままでゆっくりお話したことはなかったのだけど、改めて互いの仕事の話をしてみれば、じつは互いに「呼吸」というものが大きな関心事なのだと意気投合。先日、徳島の人とも「呼吸」の話をしたばかり。これもまた、不思議なものだ。


■吉祥寺

田無の近くで児童書出版社A社の担当編集者さんと新作の打ち合わせ。彼女とはプライベートでも親しくしていただいていて、今回のファミレスでの打ち合わせの席には、彼女の愛娘Mちゃんも同席。生まれた頃から写真では見てきたけれど、うわぁ、大きくなったなっぁ…。

ようやく歯が生えてきたMちゃん。ノートパソコンの陰から「いないない、ばぁ!」をしてあげると、きゃっきゃと喜ぶ。たのしいねぇ。

でも、こんなふうに僕がMちゃんのお相手に夢中になっていては、ある意味で、仕事にはならない…。でも別の意味では、この環境で打ち合わせができるからこそ、何かよい本が作れそうな気もする。

打ち合わせのあとは、別の友人と待ち合わせて、吉祥寺で夕食。何を食べようか…。何の宛てもないので、ここは友人の「とりあえず、有名なところだけど、行ってみる?」という勧めにのって、吉祥寺で誰もが知っているというカレー屋にいくことに。

幸い席が空いていたので、入る。と、店内の壁のいたるところにかわいらしい絵が飾られている。

「おや、これは、Kさんの絵では…?」。

見るからに、いや明らかに、さっき打ち合わせをしてきたばかりの児童出版A社で以前お目にかかったことのある絵本作家Kさんの作品だ。一昨年、ちょうど自分の本の刷り上がりの確認でA社を訪ねた折、Kさんも色校の確認で来られていて、両書を編集者が「読み語りくらべ対決」などしてくれた思い出がある。そのKさんの絵が、なぜこんなにもたくさん…?

不思議に思いながらも食事をし、会計時、レジの人に「この絵、誰が書いたものなの?」と、ちょっと遠まわしに質問してみる。すると「オーナーです」。「オーナーって、どなた?」「M.Kです」。

ビンゴ。まさにKさんだ。

なんと、A社でご縁を持ったKさんの店に、A社の打ち合わせを済ませたその足で、まったく偶然にも来てしまったのだ。

これでKさんがその場にて「やあやあ!」ということにでもなれば、それはあまりにも出来過ぎだけれど、幸か不幸か(?)Kさんご本人はおらず。しかし、あまりの偶然のおかしさに、さっき食べたカレーの味もいや増して、じつに幸せな在京最終ディナーとなったのだった。


■いくつかの場所・いろいろなやり取りの中で

外の世界と交わること。意識を外へ向けること。いま直ちに身体的・具体的に外へ向かわないまでも、また、思いを内へ巡らせつつも、外へ通ずる窓は開いておくということ。生身の自己の姿を外へとさらすことを、少なくとも、あきらめてしまわないこと。

それら外へ向けた自発的営為というものは、少なからぬ”自己との対話や格闘”を必要とする。その”対話と格闘”の有無が、その人が発する「ことば」の質感に与える影響というものについて考えている。

ある人の口から吐き出されたことばで、そこにその人自身の”自己との対話”もしくは”格闘”の痕跡が見て取れることばは、僕にとっては、聞くからに(読むからに)、耳や目、そしてこころに重たく響いて、大変心地よい。例えそれが、虚飾のやさしさや演出された親しみやすさ、全方向的な配慮、流麗さ、論法の巧みさ、語彙の数量的な意味での豊富さ、既存の金言・格言などの一切をこれっぽちも備えていなくてもだ。時には張り詰めるような「無言」さえもが、実に雄弁にことばの意味を伝えてくる。

逆に、吐き出されたことばに何かしらの”格闘”の痕跡が感じ取れないときには、いかにそのことばが「上手」でも、聞いたこちらのこころが動かないことが多い。

かく偉そうに言う僕自身、かなり内向きで卑しい「保身の作法」を身に染み込ませているため、じつに軽いことばを吐いてしまうことが多い。そして、それに甘んじてしまってさえもいる。

しかし、できることなら、心身に染み渡ったその「内向き体質」の濁り汁を一切搾り出して、開かれていながらも重たいことばを、あたかも呼吸をするように、自然と表出させ得るようになりたいと思っている。

ま、それがなかなかに難しいのだが…。(これが僕のようなものにでもすぐできてしまうのであれば、世に詩人は要らない)

| 備忘録 | 12:03 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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いろいろありすぎて…

3月28日から長沼町~札幌~神奈川~東京と動いています。

それぞれの場所で、それぞれの日に、いろんな出会い、心に残った出来事はたくさんあるのですが、とにかく毎日落ち着いて日記を書く時間が取れません。

ひとつだけ、今日こころに残ったことを書きましょうか。

「同校勤務の教員同士の結婚報告を2月に子ども達に知らせることの是非」。

これだけ抜書きすると「なんじゃ?」とおもわれるかもしれないけれど、そのことの中から、いろいろ考えるべきことが見つかった。

今日は特に、教育についていろいろな側面から考えるヒントをたくさん頂きました。よかった。

| 未分類 | 01:49 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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