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2008年06月 | 月別の日記 | 2008年08月

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整理

■一気に蔵書の整理をしようと思い立ち、家族兼用ルームの本棚を完全撤去してから、あら、もう2ヶ月経ってしまいました…。

■本棚撤去以来、押入の中には本を仮詰めしたダンボールがギッシリ…。どうしよう。

■つい先日、娘たちの絵本・児童書は何とか頑張って配置を決め、落ち着くべきところに落ち着けたのですが、”本丸”であるオトーチャンの本は、もう収集がつきません。ああ、いったいどうしたらいいのやら…。

■しかし、放っておくわけにもいかないので、今日の午後、えいや!と奮起して、ダンボール数箱ほどの本を押入から引っ張り出しました。

■しかし…。だめだぁー!ついつい読み始めちゃんですよね、いざ整理を始めると…。大掃除のときに古いアルバムを見始めて時を忘れてしまうのと同じ。

■それどころか、買っていたのにまだ読んでいない本も奥からごろごろ出てきて、大変です。

■「子どもの思考力」「日本語の個性」「自然農から 農を越えて」「現代農業増刊・新ガーデンライフのすすめ」「ニルス=ウド 自然へ」「越後三面山人記」「シネアストは語る5―小川紳介」「潜像残像」…。

■面白そうな本ばかりなのだけれど、ジャンルもちょっとバラバラで、蔵書の整理どころか、頭の整理も当分すっきりしそうにはありません…。

■「あしたのジョー」通巻も、よ、読みたい…。
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| | 22:03 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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信頼

■今日は、十勝平野の南、広尾町の豊似小学校に呼んでいただき、スライド上映と絵本作りワークショップ(WS)をしてきました。

■まず、お呼びいただく一番のきっかけを作ってくださった保護者Kさん、そしてこの催しの実施を快諾してくださった子ども会役員の方々、また校長・教頭先生をはじめとした学校関係者のみなさんに、この場を借りて感謝を。どうもありがとうございました。

■そして今回もやはり、子ども達にこそ、ほんとうにどうもありがとう。

■なぜ講師が受講者に対し「ありがとう」を言うのか。それには理由があるのです。

■豊似小学校に限らず、僕は、こうしたWSをさせて頂くたびに、ある大切なことを子ども達から教わっています。

■それは、「子ども達は、真に信頼に値する存在」であるこいうこと。

■つまり僕は、自らが講師を務めるWSのなかで、彼らから「人を信頼する」ということの実地レクチャーを受けているのです。

■それは、こういうことです。

■自分の写真を見てもらうこと。自分が書いた本を読みそれを聞いてもらうこと。そして「きょうは一緒に”身近ないのち”を見つめてみようよ」、「自分だけの絵本を作ってみようよ」と呼びかけること。

■これら、僕が講演やWSのなかで呈する行動は全て、僕から彼らへの「呼びかけ」そして「問いかけ」です。そして、紛れも無い事実として、それらは全て、僕から彼らへの限りなく一方的な「お願い」に過ぎません。

■はっきり言ってしまえば、多くの場合、子ども達自身の中には「写真家を名乗る小寺某から何か特別なことをしてもらう」ということへの内発的ニーズは、これっぽっちも無いわけです。

■その事実ゆえに、じつは僕は、特にWSを通して彼らに「問いかける」ときにはいつも、言い様のない不安と恐怖を感じています。僕は、WSのたびに、ワクワクする期待感を覚えると同時に、いつもコワイのです。

■彼らは僕の呼びかけを受け止めてくれるだろうか…。”いのちを見つめよう!”なんていう手前勝手な掛け声に応え、一つの作品を仕上げるというかりそめの課題を、彼らは本当にその手で担ってくれるだろうか…。

■WSが始まってしまえば、もうそこには、ほぼ「祈り」にも似た、子ども達への「信頼」しかないわけです。僕にできることは、あとはもう一切を彼らと彼らの感性に「委ねる」しかないのです。

■でも…。

■彼らは本当にきちんと答えてくれるのですね。彼らは「見つめ」、「作り」ます。

■時には、そしてその個人によっては、こちらの「祈り」を遥かに凌駕して余りある、”いのち”への確かな眼差しに充ちた物凄い作品を、ポーンと僕に投げ返してくれたりするのです。

■もちろん、彼らがそのように僕のささやかな「信頼」に応えてくれていることの背景には、例えば学校行事であれば学校行事としての、また集団で行う行事としての、若干の「目に見えぬ強制力」が作用していることは否めないでしょう。

■また、初対面の者同士のあいだにある拭い難い「緊張関係」(甘えられない関係)が影響してもいるでしょう。彼らのやさしさゆえの「他者への配慮」もありましょう。

■しかし、それを割り引いたとしても、彼らは、そして彼らの感性と手が創り出す作品は、いつでも僕の信頼を裏切る事がないのです。彼らは、彼らなりの方法、彼らなりの表現で、僕の拙い問いかけにきちんと応えてくれるのです。

■それは、特別な技巧に富むでもなく、恣意的な作為を孕むでもなく、どこまでも不器用・愚直であるが故に、かえって僕の胸を強く打ちます。

■この経験は、僕を本当に深く励ましてくれます。

■恐る恐る差し出した手を、余計なことは何も言わずにただしっかりと握り返してもらえるということ。それがどれだけ人の心を温かにするのか――。そんなことを、僕は自らの体験として、WSという場で彼らから教えてもらうのです。

-------------------------------
■いつものこの日記のように、今日もいささかオーバーな書き方をしすぎているかもしれません。でも、本当です。

■彼ら小さな人たちは、信頼するに値する存在です。そのことを、僕は今日も感じました。だから、ありがとうといいたくなるのです。

■そして、自戒を込めてつくづく思います。僕を含めたいわゆるオトナたちは、普段の暮らしのなかで、彼らをもっともっと信頼すべきなのかもしれないな、と。

| こども | 23:38 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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長女の部屋

■5歳の長女が自分の部屋をもった。

■とはいっても、僕や妻が空き部屋を彼女専用にあてがってやったわけではない。彼女が自分で部屋を”作った”のだ。もちろんそれとても僕らが「ほら、作ってごらん」と指図したわけでは一切ない。

■家族4人で寝ている寝室の片隅の1.5㎡程度の空間を、次女がついこのあいだまで使っていたベビーベッドの柵状フレームで囲い込み、そこに座布団を敷き詰めただけの、きわめて簡易なつくりの「お部屋」。

■しかし、その部屋に対する本人のこだわりようはなかなかのものだ。

■その部屋にはいっぱしに書庫もある(…といっても、タンスと壁の間に空いた10センチほどの隙間なのだが…)。そこにお気に入りの絵本を数冊ギチギチと押し込んで悦に入っている。

■洋服ダンスを導入するかどうかはまだ決めかねているようだが、お気に入りの服だけは、きっちりと四角くたたんで枕もとに常備している。

■お宝金庫だってある。キラキラビーズやお気に入りのピンクの髪留めなどをお菓子の空箱に押し込み、「これはだれもさわっちゃダメなんだからね!」と念を押す事も忘れない。

■今夜も彼女は、それらたくさんの大切なモノや、おばあちゃんからもらった大事なクマチャン人形たちにぎっちりと囲まれて、じつに窮屈そうな姿勢で、しかし、じつに満ち足りた寝顔を浮かべながら、静かな眠りについている。

■きっと明日になれば、彼女の部屋にはまたさらに、ちょっとしたリノベーションやデコレーションが施されるに違いない。

■わずか1.5平米足らずの狭苦しい空間の中で、彼女の「わたしの世界」が今ぐんぐんと膨らんでいく。その様子を、妻といっしょにクスクスと笑いながら見守るのが、ここ1週間ほどの僕の密かな楽しみだ。

■一緒の布団で寝てくれなくなったのは、正直、ちょっと寂しい気もする。でも、それにも増して「ヒトの親になるということは、かくも楽しいことだったのだな―」としみじみ感ずる、今日この頃。

■どうぞ彼女の小さな部屋が、これからもどんどん素敵に膨らんでいきますように。

| こども | 22:43 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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おもしろい!

■出先にて、撮影の合間に本を読んでいる。

■「人はなぜ花を愛でるのか」八坂書房。

■考古学、文化人類学、民俗学、美術史などを専攻する8名のパネラーによるシンポジウムを基にした短論文集だが、これが面白い。

■古くは「ネアンデルタール人は葬送で花を供えたか?」から、「東アジアの花食文化」まで、古今東西の人と花との関わりに関する様々な事例と考察が紹介される。

■2/3ほど読んだが、読み進めるのが楽しみだ。読めば読むほど「ヒトって、不思議」と思える。

■そもそも「人はなぜ花を愛でる?」という問いかけをすること自体が、ヒトというイキモノの摩訶不思議なんだよなぁ。

| | 20:17 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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昨日の様子

昨日は帯広市内でデジカメワークショップをしました。
たのしかったー!

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天気は最高。でも、撮影そっちのけでクワの実を食べてます…。

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ルリイトトンボ、シオカラトンボがいました。

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木の又に生えた新芽を激写。木登りだってしますとも。

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あー、アカゲラがいるよー!

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カメラを持つ手、目つき、物腰はすでに立派なカメラマンです。

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部屋に戻って絵本作り開始。

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画用紙で作った「本」に写真を貼っていきます。
写真の順番、貼り方、文章のつけ方…うーん、悩みます。

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「初めのページは、やっぱりこれかなぁ?」

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「タイトルは緑色の文字にしようっと」。

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”写真物語”に挑戦する子もいます。

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こちらは大胆。写真にはさみを入れて、切り抜き。

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「ほら、トンボが青空に飛んだ!」

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「ねね、その切り抜いた後の紙、ちょっと貸してよ!」

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「ほーら、いいこと考えたもんねー!」

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で、作品が完成。

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できあがった作品は、みんなの前で発表します。

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「わぁ…すごい。ほんとの絵本みたいだ…」

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はい、オシマイ!

| こども | 11:30 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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デジカメ写真絵本

■きのうは町の公民館でデジカメ写真絵本作りワークショップ。

■小学4年~6年生15名と”足元の小さないのち”を見つめる撮影を楽しみました。

■絞りがどうの、シャッタースピードがどうの、前ボケが…パースペクティブが…背景処理が…なーんてウルサイことには一切こだわらず、「こんなの撮ったよ!」という写真の、なんという力強さ。まさに「被写体ありき」です。

■講師として反省すべきは、機材準備が不十分だったこと。

■地元の小学校からデジタルカメラ本体をお借りしたのですが、その約半分がいささか旧式で、使用するメモリーカードの種類が今ではほとんど見られなくなった「スマートメディア」。

■おお、懐かしいじゃないか!と思いつつ…じつはこれが困った事に…。

■昨日の日記に書いたとおり、僕は数日前に、こうしたWS用にと、メモリーカードからダイレクトプリントができるプリンタを新調したばかりなのですが、その最新式のプリンタは、いまは懐かしの「スマートメディア」に対応していなかったのです。

■新プリンタの高速印刷機能をあてにして組み立てたプリントアウト作業が予想外に手間取り、スケジュールがかなり押してしまいました。

■使用カメラの仕様を事前にしっかり確認しておかなかった僕のミスでした…。冷や汗をかきました。

■でも、そうした講師のふがいなさをはるかに越えて、子ども達、結構凄い写真、撮るんだよなぁ…。負けていられません。

| 仕事 | 16:15 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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プリンタ/中央

【プリンタ】

■今日は午後から町内の公民館で「子どもデジカメワークショップ」。楽しみだ。

■今後いくつかデジカメワークショップのご依頼を頂いているために、このたび、思い切ってそれ専用のプリンターを複数台購入してしまった。

■僕にとっては巨額の出費だ…。ああ、どうしよう…。カード引き落とし日が、怖い…。

■でも、まあいい。必要経費だ。

■これまで、子どもカメラワークショップは何度かやってきたが、結局最後にネックになるのが、子ども達が撮った作品を、いかに皆で観れる状態、つまり「プリント」にするかだった。

■北海道の特に郡部では、プリント1~2時間仕上げなんてものをやってくれる便利なDPE屋がワークショップ会場のすぐそばにあることは稀だ。特にフィルムカメラを使っていたときなどは、どう頑張っても、撮影した写真をワークショップ当日にプリントとして子ども達に見せてあげる事が出来なかった。

■しかし、時代はデジタルになり、状況が変わった。

■最近のインクジェットプリンタの進化は目覚ましい。印刷品質と速度の劇的向上、そして「ダイレクトプリント」など機能の充実。現状のインクジェットプリンタならば、なんとか、即日・その場で子ども達に自分の作品をプリントとして手渡す事ができるようになった。

■デジカメワークショップを行う場合、いままでは、主催者にプリンタをどこかから調達してきてもらい間に合わせてきた。けれど、その都度プリンタの印刷速度性能が違うので、プログラム進行が大変組み辛かった。

■で、「いっそのこと、プリンタは自前で…」と考えてしまったのだ。

■ということで、今日これから新規購入したプリンタの華々しいデビューだ。

■自分が心を込めて撮影した写真が大きく引き伸ばされて目の前に現れる時の感動は、久しく写真に関わり続けている僕でも、いつも味わう感覚。

■子ども達の喜ぶ顔が、楽しみだ。大出費の痛みも、それで少しは和らぐな…。


【中央】

■生業として写真をやっていると、時折「写真家として、中央での活躍を…」という言葉に出くわす事がある。

■ここで言う”中央”とは、もちろん、東京周辺・首都圏のこと。もしくは、(日本においては)そこを拠点に繰り広げられているいわゆる「写真文化・写真産業」の動きや在り様をさす。

■そのたびに、ヒネクレ者の僕は、「中央って、何だろな?」と心中でつぶやく。

■人や情報が多くある場所が”中央”なのか。流れが大きく強いところが”中央”なのか。権威や権限が集まっているところが”中央”なのか。つまり”中央”とは、力であり、権威なのか。

■では、僕が今いるこの北海道の田舎町は、それに照らせば、なんと呼ばれるべき場所なのか――。

■正直に告白すると、特に「写真」ということに関していえば、僕の中にだって、いわゆる”中央(首都圏)”をある種の権威と結びつける価値観は確かに存在する。たとえば、人に自分の活動を紹介するときに、ついつい「新宿で写真展をやった際には…」などいう言葉が何よりも先んじて出てきてしまうことが多々ある。

■でも、そのたびに僕は、やはり、いわゆる”中央”というものが自分にとって何なのかを見つめ直す必要を感じる。

■写真に限らず、人(人々)の存在の在り様に”中央”というカテゴリーを設けること、さらには、そのカテゴライズされた部分に”特別な力や権威”を認めること。

■僕は、カテゴライズや権威付けそのものを「全くの誤りだ」として否定しようとは毛頭思わない。きっとカテゴライズされるだけの理由は多々あるだろうし、その中でこそ醸される特殊な力や”効果”もそこには確かにあるだろう。

■しかし、そのいわゆる”中央”なるものと、”私の足が現に立っている場”との距離感を常に見誤らないようにすること、それには充分注意をしていたいと思う。

| 未分類 | 11:26 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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軽やかに

■今日は、午前と夜に、町内で会議が二つ。あるイベントの反省会と、ある団体のこれからの展開についての企画会議。

■どちらも、僕にとっては、参加することがとても有意義な集まりでした。

■二つの会議に共通するマイ・キーワードは「まず、やってみよう!」。何ものにも捕われず、まずは動き出すということの大切さ。

■自分を省みたとき、ついつい安易な「自己規定」をし、その中に留まりたがる自分自身がいます。

■しかし、そうした保身の欲求を乗り越えて、自分で作り上げてしまったその「己という名の壁」を、いかに軽やかに乗り越えてゆけるか――

■いかに今自分を取り巻いている(取り巻くに任せてしまっている)現実を乗り越え、その先に新たな「私の現実」を創造することができるか――

■自分を捕えて押し留めようとするものを、いかに我が身から削ぎ落としてゆけるか。つまり、自分自身をいかに軽やかに開放させられるか――

■いや、最終的、究極的には、自らの能動的な選択によって敢えて設けた規定の中でこそ、いかに自分自身を自由にさせておけるか――

(物凄~くキザったらしい言い方をすれば、それは「詩的な生き方・写真的な生き方」と言えるでしょうか)

■ここのところずうーっと考え続けている大きな課題を、今日の2つの会議の中でもやはり考えたのでした(反省を込めつつ)。

■己を開放させる軽やかさを、自ずから天賦の才として備える人がいます。方や、そうでない僕は、「考えることの中で軽やかさを得てゆく」という、凡才ゆえの大きな矛盾を抱きつつ歩むことになります。

■でも、幸い北海道(アイヌモシリ)というこの土地の風土と、ここで出会えた人達とのつながりの寛容さが、それを続けてゆくことを大らかに許してくれるようにも思えています。

| 未分類 | 23:40 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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伊藤健次

■僕の好きな写真家の一人に、北海道在住の伊藤健次さんがいます。北方圏の自然や文化を中心に撮影を続ける写真家です。

■歳は僕の3つ上。僕と伊藤さんとは、写真を離れたところでも共通の知人が多く、時折連絡を取り合う友人でもあります。しかし同時に、伊藤さんは、常に僕の遥か先を歩み続ける、僕の尊敬すべき先輩です。

■今日7日の北海道新聞に折り込まれた別刷り(北海道新聞広告特集「めざそう!エコアイランド北海道」)に、数人の自然写真家と共に、伊藤さんの写真作品とコラムが大きく掲載されていました。

■そこに書かれた文章を読んで、僕は改めて伊藤健次という人の眼差し向け方に共感を覚えると共に、彼の表現者としての力に感銘をうけました。

■洞爺湖G8サミットの開会日に合わせて発行されたこの「地球にやさしい・エコプロジェクト」なる企画別刷りのなかで、他の登場論者・筆者はおもに、自分の専門フィールドの中で感覚しえた環境破壊、特に「温暖化」への危惧を話題の中心に据えていました。

■しかし、伊藤さんは一味違いました。以下に、彼の文章を中略しながら抜粋します。

「写真は日高山脈中央部のエサオマントッタベツ岳です。…日高山脈は…最高峰の幌尻岳でも標高2052mと世界の中では決して高くないけれど、稜線には「カール」が数多くあります。…カールでは…野生の息遣いや太古からの果てしない時間が折り重なった、静寂な気配が漂っています。…山の懐を抜けてカールに佇んでみると、山頂よりも人知れぬ無数の源流や、それを取り巻く山の広がりこそ大事だと気づかされます。」

■このあと、伊藤さんの文章もまた他の筆者同様に、たとえば日高横断道路による環境変化や、ナキウサギを例にとった「温暖化」「環境破壊」への危惧を紹介する文へと続いてゆきます。

■しかし僕は、直接的に環境問題を指摘するその後半部分よりも、抜粋した前半部分の文にこそ、伊藤健次の表現者としての独立性、眼差しの深さを感じ、感銘を受けるのです。

■お山のてっぺんよりも、裾野の存在を。そこに連なる無名な個々の息遣い、折り重なった時間(歴史)を。世界の中で高さ比べをするよりも、いまこの私を取り巻いている広がりを――。

■…いささか、読み込みすぎかもしれませんね(笑)。僕のいつもの悪い癖です。

■しかし、この文脈のなかで敢えて「世界」という単語を使ってみたり、「山頂」にフォーカスを当ててみたり…。僕はそこに、伊藤さんの世を見据える眼差しを感じずにはいられないのです。

■巷の「エコ・サミット・フィーバー」に乗じるかのように発行されたこの別刷りへの寄稿のなかで、あくまでも自分のフィールドを逸脱せずに、そしてじつにさりげなく、山渡る風のような爽やかさで「山頂(サミット)って、何だろうね」と問えてしまう伊藤さんのセンスに、やっぱりこの人はタダ者ではないな、と思うのです。

| | 12:03 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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幾つか日記が消えてしまった…

知らないうちに、幾つか最近の日記を削除してしまっていました…。上書きしてしまったようです…。

| 時事 | 09:13 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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デモンストレーション

■昨日札幌で、G8サミットに反対する大規模なデモンストレーション行進が行われた。

■夕方からのTV報道番組が軒並みその様子を伝える。それをみて、大いにガッカリする。

■TVメディアがデモンストレーションに対してもつ視点。それは、あくまでも「混乱」「不安」であるように見える。

■インサート映像として、わざわざ、ドクロの面をかぶったデモンストレーション参加者を紹介してまで、このイベントを「不安感」というものとリンクさせようとする。

■実際には、もっともっと「平和的」に、「明るく・楽しく」、でも「しっかりとしたメッセージを携えて」デモンストレーションを行った参加者がたくさんいたというのに、それらの様子、また、彼らが何を主張しているかの核心部分については、ほとんど無視される。

■それよりも、TVメディアが真っ先に伝えるのは、逮捕者が4人出たという「問題」。そしてそれに前後して、札幌市内や洞爺湖会場周辺の警備の警戒が強化されている様子、またJR駅のゴミ箱が撤去されただの、サミット安全対策に関する小ネタが続く。

■また、デモを見た市民の「こういうのを観るのは初めてで、ちょっと怖かったですね」などというインタビューを添えたりして。

■僕は不思議におもう。なぜこうも、TVメディアは、「デモンストレーション」と「騒動」「混乱」「不安」もしくは「暴動」とを結び付けたがるのか。

■いうまでもなく、デモンストレーションは、憲法で保障された人権のひとつであって、民主的な意志提示の手段の一つだ。

■あそこに集った人のほとんどは、多分、何かしらの意志や思いをもって行列に加わっている。

■もしもメディアが「私たちは、みなさま(市民)のためのメディアです」という基本姿勢をもっているならば、いま報道を通じて伝えるべきは、そのイベント的側面(しかも負の側面を強調)ではなく、デモンストレーションが提示している「民意」そのもののはずだ。

■札幌で、これまでで最大規模のデモンストレーションが行われる。その「理由」は何なのか。何を「提示」するために、このイベントは起こったのか。

■イベントの表層や、イベントの余波として起こった出来事を紹介するのもいいだろう。でも、そこからさらに掘り下げるべきは、イベントが起こるに至った「原因・根拠」のはず。

(「4人逮捕」にしても、なぜ逮捕に至るようなことになったのか、つまり、その場で一体何があったのか、参加者が何をしたから逮捕されたのか、または、【むしろこちらの方に僕はより関心があるのだが…】機動隊・警察がデモ参加者に対し逮捕の前後でどのような行動をとったのか、ということを知りたいものだ)

■しかし、大手TVメディア番組に限れば、その多くは、どうもその核心部分を伝えるつもりはないようだ。

■片方では、サミット会場の豪華ホテルの様子や新しく作られたメディアセンターの様子、洞爺湖の自然などを、情報バラエティ番組よろしく「ちやほや」と伝え、その一方では、反G8の声や行動は「不安」と絡めてごく表面的に紹介する。

■僕は、問題があるなぁ、と思う。

■TVというものが、そもそも構造的にまっとうなジャーナリズムを持ちがたいことは理解できる。特に、民放の根幹はスポンサー企業(大手企業)の「営利」と密接に結びついている。

■しかし、曲がりなりにも、影響力の大きなメディアが報道を行うのだ。起こったことがらの「何故・なに」を探らずに、物事の表層ばかりを一面的になぞっているだけで、いいのだろうか。

■TVに限らず、多くのメディアのそうした姿勢、とくに、ニュースに付随する「不安的側面」をことさら強調して伝えようとする姿勢こそが、日本が今抱える重大な諸問題の根底に横たわっていると僕は思っている。

■TVには、意識的に「市民」の側に立ち、深く根を掘るような報道・番組作りを期待したい。

■ちなみに、不安を煽り立てることで世の中をコントロールしようとする方法を「テロリズム」というのではかなったか、といまさらながらに思うのだが…。

| 時事 | 09:11 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

2008年06月 | 月別の日記 | 2008年08月


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