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2008年08月 | 月別の日記 | 2008年10月

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本を作る難しさ

■先ほど田無でのイベントを終え、神奈川の滞在先に戻りました。

■昨日・今日といろいろ書くことがあるのですが(アンセルアダムス、若きフォトグラファー、ヒヨケザルなどなど)、全てを書くと長くなりそうなので(特にイベントの件は)、今日はひとつだけ。

■昨日某所で読んだ本の所感。

■それは、知人の写真家があるライターさんと作った本。その書名はというと…えー、ちょっとナイショにしておきます。

■というのも、次に記す個人的見解にすぎぬ雑感・書評がその本のセールスにわずかでも影響し、知人である写真家の今後に幾ばくかでも不利益になることを個人的に恐れるからです。

■ああ、なんて身内贔屓・手前勝手な(またこの不定期日記の読者をなめた)理由なのでしょうか。もうしわけありません。でも、やっぱり書名は伏せておきます…(だったらはじめからこういう公開日記にかくなよ、ということなのですけれどもね…)

■はっきりいって、その本、もう、もったいないの一言。なにがもったいないか。それは、文章が写真の力を奪ってしまっているからなのでした。

■例えて言えば、ある料理人が極上利尻昆布でじっくり煮出した旨みダシ汁(しかもすでに天然粗塩で絶妙の味加減に調味済み)に、別の料理人が「いや、これ足したら絶対うまいから!」といいながら、冷蔵庫の奥からひっぱりだしてきたケチャップやマヨネーズ、ウスターソース、ついでに味の素や粉末カツオだし調味料を遠慮もなくぶち込んで、「これがオトコの料理ってもんだ。どうだ、美味いだろ!」と豪語しちゃうくらいの、ああもったいない…なのでした。

■いわゆるコラボレーションていうのは、なかなか難しいものなのですね…。
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従わぬ者は

■やっぱり頭にきちゃうので、もう一発載せておきます。

「中山国交相「日教組強いところは学力低い」 発言後に撤回」
NIKKEI NET
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20080926AT3S2502N25092008.html


■上記リンクサイトの記述(中山氏の発言)を読んでいると、いくつかのことを思い出す。

■僕がある大人の集会で講演をさせていただいた後の交流会で、僕の普段の活動のうち、学校に赴いて行う講演活動の話になった。

■僕は、日ごろそうした活動の中で感じていることとして、僕のような部外者でもわかる現場教員の多忙の様、また特に、文化省の”猫の眼”行政に翻弄されて指導の組み立てに苦しんでいる現場の雰囲気などを紹介した。

■たとえば「生きる力の教育」。そういったカテゴリーの事柄に関して教員の方々は、限られた時間・予算・そして自分自身の経験的資質との間で、悩み、結構な苦労をしている。

■そんな部分で、部外者である僕のようなものを現場で有効に活用してもらうことで、こども達のために役に立てることがじつはあるのかもしれませんね、と。

■そんなことを言ったら、交流会参加者のうち、ある男性が突然声を荒げ次のようなことを言った。会社経営をされている方だった。

■「ええ?教員はそんなことのために外部から人を呼ぶのか?!なんで自分達で教えない。教師だろう。そもそも北教組の連中はそうやって自分の仕事をサボっているくせにアレをしろコレをしろと上に要求ばかり上げてくる。指導力が足りないのだ。そういう教師は辞めさせないと。学校は、校長の権限をもっと強くしないとダメなんだ。」

■その結構な勢いに僕は「おおっ」とたじろいだのだけれど、「いや、それでもですね…」と口を挟もうとした。

■そうしたら、その交流会の主催者である別の男性が「まあまあ。組合の先生も頑張ってますよ。むしろ組合活動を一生懸命やっている先生のほうが、子どものこともちゃんと考えていてくれる気がするな」というようなことを言って、場を収めてくれた。その方はPTA会長経験者だという。

■また、次のような経験も思い起こされる。

■10年ほど前、まだ僕が札幌にいたころのこと。そのころはまだ写真専業などというわけにはいかないので、ある職場で常勤職員をしていた。

■そこに、ある20才台前半の青年が「短期研修」ということでやってきた。ゆくゆくは親の経営する会社を継ぐらしいのだけれど、そのまえに異業種の現場でいろいろな体験をしたい、ということなのだという。

■言い方は悪いが、多分それは”御曹司”が受ける「帝王学」教育の一環であり、こうした研修を通し中小企業の実態を知り、さらには「こき使われる側の身になってみる」という体験のためだったのだろう。

■彼は遠からず、自らの血族関係のなかで「使う側」のトップに上り詰めてゆくのだろう。でも、僕は「一度は使われる側にたってみる」という発想自体はとても大事なことだと思ったし、なにしろ、その青年は明朗快活でなかなかいい男だったので、気持ちよく彼とともに仕事をしていた。

■しかしある日のこと。僕と上司が職場で雑談をしていた折に、どういう展開からだったかは忘れたが、旧国鉄解体、そして国労闘争の話になった。「国労ラーメン」が美味しいかマズイかの話だったか…。いや、もっとまじめに「不当解雇とは」という話をしていたかもしれない。

■すると、そこにその青年が現れ、すこし僕らの話を聞いたあとで、ちょっと皮肉な笑みを浮かべながらこう言い始めた。

■「国労の問題ってありますけど、でも、聞くところによれば、あの連中サボってばかりで仕事しないから、解雇されてもしょうがないってとこもあるんですよね。」

■きっと彼は、えてして深刻になりがちなこの手の話題を彼なりの方法で和ませようと、あえてそんなふうに口を挟んできたのかもしれない。その彼なりの気遣いは、感じられないでもなかった。

■しかし、それを言う彼の口ぶりと笑みを浮かべた表情の中には、同時に、やはりどうしても、彼の身に染み込んでいるであろう「帝王学」つまり「使う側の論理」のある種の冷徹さが感じられ、僕は正直、その一瞬、彼に対して嫌悪に近いものを感じてしまった。

■そして、その発言を聞いた直後に烈火の如く怒りを露わにした僕の上司の、まさに煮えたぎるような憤怒の表情が忘れられない。僕の上司は、その出自が、ニッポン的価値観のなかでの人種的マイノリティーであり、被支配的マイノリティとして規定されてしまっているがゆえの痛みの中で生き続けてきた人だった。

-------------------------------
■「使う側」の論理と「使われる側」の論理が違うことは当然のこと。だからこそ、教員や鉄道業従事者に限らず組合というものはあるのだし、交渉や議論の場がある

(じつは僕は、組合の運動というものがもっともっと活発な世の中であって欲しいと思っている。昨今よく見聞きすることだが、どうも各方面での”組合弱体化”は、結構深刻な事態に陥っているようだ…)

■そしてそれは、「自分の意図・計画に従わせたい者」と「それに従うようにさせられる者」というふうに関係を拡大すれば、たとえば開発者と地域住民との関係、また、政治実行者・統治者としての国家と市民との関係にもあてはまる。

■さらにさらに拡大することが許されるのならば、社会的立場における多数者と少数者との関係にもあてはまるし、はたまた、異なるイデオロギーや文化価値観をもつ集団(国家)間の勢力関係にも当てはめられよう。

■それぞれに存在と行動の論理が違うのは、あたりまえ。

■しかし、論理が違えば、そして、論理は違いながらも双方が同じ場に居続けることが求められるのならば、そこに何とかして妥協点を見つけ、何とかして双方がその場に居続けられるように、互いに汗をかきあうのが、やっぱり人の間のあるべき姿だと僕は思う。いくら”青臭い理想論だ”などと揶揄されようが。

(大地を耕し食を得る、とは、まさにヒトと大地とのあいだでのその営為に他ならない…などと、ついでに話を飛躍させてみたりして。笑)

■さて、では、いまの社会は、どうか。

■従わせたい者の言い分に従わない者は、ある固定化した分別基準のもとにパッキングされる。そして、従わせたい者は、そこに「自己責任」のラベルを大きくぺたりと貼りつけたら、「はいサヨナラ。あなたに退場を命じます」。

■そんなふうに、なってないだろうかなぁ。人の世が、そんな単純なものでいいはずがないと、思うのだけれどなぁ…。

■でも、中山氏の一件に限らず、またこの「帝王学青年」の件に限らず、たとえばネット上の「空気嫁。逝ってヨシ」とかいう常套句、またたとえば、いま現在東京都教育委員会で行われていることなどをみると、ああ…と溜息がでます。

■その溜息を、僕らは汗をかきつつ、ことばに換えていかないと。

| ぼやき | 10:25 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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ことば

■政界はすでに麻生カラー全開のようです。

毎日新聞【毎日jp】より
中山国交相:成田空港問題「ごね得」 日教組批判も
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080926ddm002010034000c.html

■たった一人の閣僚の発言を取り上げて日本の政治全体についてあーだこーだ言うのもよくないですが、それでも、やっぱり言いたくなる。

■強者には弱者たらしめられている者の、持てるものには持たざる者・奪われし者の、その置かれた状況も心持ちも、とんと理解ができない、否、するつもりがないのだなぁ、と。

■話は少し飛躍しますが…

■こどもも若年非就労層(ニート)も高齢者も障がい者もみんな「自己責任論」に押し込んで、罰則と監視は強化。持たざる者の異議を申し立てる力・抗う力はさらに削がれ、ゆくは”滅私奉公”の世界へと…。いや”滅私奉強”というべきでしょうかね。

■さて、これからどんな社会がぼくら市民を待っているのでしょう。

■ああ、ひさしぶりにこんな日記を書いた。

-------------------------------
■と、閣僚のことばを突っついたあとで、昨日とある場所で出逢ったことばをここに紹介しましょう。僕にとっては、宝石のようであり、また今の自分の心根を突く真っ赤な焼きゴテのようなことばです。

■絵本作家・瀬川康男氏のことば。瀬川氏と言えば、童心社「いないいないばあ」「いいおかお」、福音館書店「ことばあそびうた」でおなじみ。

「ことばは考えるための道具ではない
 ことばはいのちだ
 ことばから論理をとりだすと いのちをとりおとす
 ことばでかんがえると 理の袋小路にまよう
 ことばを自立させなくてはならぬ
 人からことばをとりあげなくてはならぬ
 ことばをして
 ことばのいのちを生きさせなければならぬ
 ことばは 神である
 人の闇をてらすひかりである」

「こんな絵でよいのか
 こんな文章でよいのか
 子供達を軽くあつかってよいのか
 悲しみをおしえなくてよいのか
 死の闇をしらせなくてよいのか
 日暮れてからの道の遠さは
 骨身にしみる」

「草花はなにを話しているか 聞くこと
 聞いて 書きとめること
 新しい言葉は 古い経験を頼りにし
 絵は全てをのみくだす」

(すべて季刊『銀花』瀬川康男特集より抜粋)

■ある絵描きの、ことばに向かうことばです。

■のみくだす覚悟。のみくだして生きる、という覚悟。

■向き合って、向き合って、自らを生かしめているはずのそのものを知る、という覚悟。

| 未分類 | 08:56 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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関東滞在中

■東京での仕事のため、神奈川県の実家に来ています。

■昨日と今日は、篭りっきりで原稿書き…。本当はこちらに来る前までにやらなくてはならなかったのですが、まとまった時間が取れなくて…。

■そういった「時間の使い方」もそうですが、このごろ特に、様々な面で「いま何を一番大事するのか?」という自問自答と葛藤を繰り返しています。

■ま、答えははじめから自分でもぼんやり見えてはいるのですけれど、それでも、あーでもない・こーでもないと模索を続ける(続けたがる)自分がいて、その往生際の悪さを身にしみて感じます。

■明々後日28日14:30から、西東京市田無駅近くでスライド上映イベントです。お近くの方、ぜひお寄りください。詳細は「最新情報」ページから。

| 仕事 | 11:12 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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イマジン音楽祭

■つい先ほど札幌から電話が。ラジオパーソナリティのKさんだ。とってもお久しぶり。嬉しい!

■で、Kさんからお知らせとお誘いを頂きました。札幌で行われる音楽イベントに、写真で参加しませんかと。

■じつは大分前にもこのお話を伺っていて、そのときに「ぜひ!」と快諾していたのだけれど、時を経て、いよいよそれが現実となります。そのイベントとは…

【イマジン音楽祭】
 10月9日(木)18:30~
 札幌市生涯学習総合センター ちえりあ
 札幌市西区宮の沢1条1丁目1-10

シンガーソングライターのいなむら一志さんが代表呼びかけ人となったイベント。詳細は公式サイトで。
イマジン音楽祭公式サイト

■当日は僕も会場に駆けつける予定にしています。楽しみ!

| イベント | 20:03 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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ロックンロール

■今日は一日、仕事場でプリント作業など。音楽を聴きながら。

■久しぶりにロックバンド「HEATWAVE」のMDを引っ張り出してかけてみる。

■じつは、ある事情で10年近く聴かずにいたのだけれど、やはりカッコイイ!

■バンドを率いる山口洋が紡ぎだす、じつに骨太で人間クサいサウンド、そして詩。そのものズバリ、ロックンロールである。

■この人の歌を聞いていると、不思議と自分でも詩を書きたくなってくるし、ギターを鳴らしたくなってくる。

■ついこの間札幌方面でライブがあったようだ。行きたかったな…。次に北海道にくるのは、いつだろう。

| 音楽 | 21:34 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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我が子を撮る

■今日は町内の保育園の親子遠足で、オマケ企画「我が子を撮る写真教室」の講師をさせてもらってきました。

■帯広郊外にある農業系の大学のキャンパスをのんびり散歩しながら、子ども達のようすをお母さん・お父さんが撮ります。

■アングルの決め方やシャッターチャンスの待ち方などをごく簡単にアドバイスしたのですが、お散歩終了後に見せてもらったそれぞれの写真には、おお!と声をあげたくなるようなステキな写真がいくつも。

■子ども達の最高の笑顔をドンピシャリのタイミングで押さえたショットや、牛や馬に恐る恐る近づく年少児の神妙な表情、青空の下を駆け回る躍動的なシーンなど、名作の数々が。

■本当は、撮った写真をセレクトしてプリントアウトし、その場で「写真絵日記」を作ろう!という企画だったのですが、お散歩がとても充実した為か、時間が足りなくなってしまって、急遽スライド上映企画に変更。

■その点はなんだか申し訳なかったのですけれど(絵日記作りは後日園でやることに…)、でも、なにより、抜けるような青空・燦燦と降り注ぐ太陽の下で楽しくお散歩できたので、それが何より!でした。

| 写真 | 17:23 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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ポニョ4

■いまようやくわかったー!

■ポニョに対して感じていた曰く言い難い感慨を、僕はずっと、なにか別のもので例えられそうな気がして、モヤモヤと思いをめぐらせていたのだけれど、それがなんだか、いまわかった。というより、思い出した。

■それは、僕が絵本「とん ことり」(筒井頼子作・林明子絵)を読み終えるたびについ口にしてしまうこの感慨でした。

「そう、そうなんだよ。この最後の2ページなんだよ。これがあれば、もうそれでいいんだよ…」。

■念のために書いておくと、その感慨が意味するところは、「とん ことり」においては最後の2ページ以外が全く不必要・無意味だ…などという意味ではありません。

■むしろ、それら前段のページで丁寧に積み上げられた作者達の思いや意図、いや、それどころか、世の中にあまた在る優れた絵本の存在意義の多くの部分が、このわずか2ページ(2シーン)の中に抱合されかねないくらいに、「根源的に大事」なページ(シーン)だ、という意味です。

■特に、宮崎氏の言うとおり、この”神経症と不安の時代”においては。

■うーん、なんだか、なおさらよくわからない補足ですね…。

■ともあれ、僕にとってのポニョ(特に前半30分)は、「とん ことり」の最後の2ページだったのだ!ということが、いまわかったのでした。すっきりした!

■ちなみに、僕は「とん ことり」においてもやはり、最後の最後でグッと目頭を押さえたくなります。はは。かなりな単純脳味噌ですね。でも、共感してくれる人、少数ながらもいるんじゃないかなぁ…。

-------------------------------
追記しちゃおう

■ポニョという作品が「となりのトトロ」への回帰だとする意見を何人もの人から聞くのですが、僕にはそれ以前の「パンダコパンダ」のほうがより近いのではないかと思われます。

■トトロ作中の世界観のように、いわば、あの世とこの世を行ったり来たり、というよりは、もう冒頭から登場人物全員であの世へ行ったっきり。あちらの世界こそ「この世」だもん!の世界観。

■そして、じつにシンプルに全編を充たす「わっはっはー、だもん!」の幸せ感。(ポニョには少し複雑さがあるかな…)

■僕はトトロも好きですが、パンダコパンダも「いいなぁ」と思います。

■特に、みみちゃんの「素敵!」という口癖がイイ!それこそ「このコ、なんて素敵なんでしょ!」と、誰かに手紙をしたためて教えてあげたくなります。絵本「まりーちゃんとひつじ」のぱたぽんとならぶ、僕にとっての2大”素敵さん”かもしれません。

■なお、うちの娘たち、どうやらトトロよりパンダコパンダを好んでいるようです。そして、親としては、パンダコパンダを好む幼少時代を時間をかけてたっぷりすごして欲しいなと、密かに願っています。

| 映画 | 00:31 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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厚岸WS

■今日厚岸で行った写真絵本作りワークショップ、ああ、たーのしかったなぁ!参加者は、こどもとおとな半々で総勢26名。

■で、今回気づいたこと。「むむ、オトナも、侮ってはならない存在だぞ…」。

■所詮オトナだから大したことないだろうな…なんて高をくくってはなりません。オトナだって、オトナの凄みというものがあるのです。それをまざまざと見せ付けられました。

■おとなだって、やるときはヤルんです!

■さて、この場を借りて謝辞を。

■お世話になった皆さん、特に、今回のきっかけを作ってくれ、手厚いもてなしの一席も設けてくれたNさんご一家。どうも有難うございました!また、こまかなお手伝いを頂いた本の森情報館の皆さんにも、お礼申し上げます。

■そして、今回もまた、ドエライ作品を僕に見せ付けてくれた参加者のみなさん、どうもありがとう!またどこかで会える日を…。

| こども | 22:23 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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もろもろ

■絵本作家・長野ヒデ子さんから新刊が送られてきました。うれしい!

■「もりもりくまさん」長野ヒデ子文・スズキコージ絵と「じゃんけんほかほかほっかいどう」長野ヒデ子文・青木ひろえ絵。

■北海道人にとっては、「じゃんけん…」ももちろんいい!しかし、「もりもり…」がいい。

■くまの日常を「もりもりくまさん…」のリズムに乗せて淡々と追います。朝起きて、朝食を食べて、買い物に出かけ…。

■スズキコージさんのタダゴトじゃない絵(笑)ももちろんスゴい。しかし、それにも増して長野さんの文もいい。

■「じゃんけん…」の方もそうなのだけれど、長野さんの「口からでるコトバへの信頼」を強く感じます。日常の当たり前の出来事も、口から出したら、ほら、百倍楽しく百倍元気になるよ!とでもいうような。

■より大袈裟に言えば、”口からコトバを出す”という行為への「希望の付託」、それをいま子ども達に伝えるということに対する長野さんの「使命感」みたいなものすら感じるのです。

■僕も思います。大事だよな、口からでるコトバ。

■ところで、今日、撮影を終えた後に車の中で読みふけった本に、こんな一節がありました。長いけど一部抜粋・引用。

 わたくしたちの思考のはたらきは、内的コミュニケーションであって、心の中で自問自答がおこなわれながら、考えがまとめあげられていく。もっと正確には、この過程はメタコミュニケーションの活動である。心の中である考えが生じたら、これを聞き手として受け止め、分析することによって、その考えをいっそうよいものに仕上げていくこととなるからである。

 しかし、こういうはたらきの出発点は、実際の会話活動にある。会話の中で、自分の発言の矛盾や問題点を自分で見出し、それを修正するという活動を通して、子どもは洗練された思考へと接近していくことができる。

滝沢武久著「子どもの思考力」岩波新書270

■これまた、なるほど、と思います。「もりもりくまさん」で上記のように考えた直後だっただけに。また、図らずもこの日記に「学力」と「ことばの力」について書いたばかりだっただけに。

■ほんと、大事だよな、コトバのちから。

■ことばと思考、そして、ことばと”学力”。

■より効率的に正答へ辿り着けることを”よろしい”とする、つまり、正答へすんなり辿り着けなかったという結果を”よろしくない”とする価値判断方法がある。それが口述によるものだろうが、筆記によるものだろうが、その方法論自体にはなんら問題はない。それを通し、確かにある一つの扱いやすいバロメーターは得られるでしょう。

■しかし、バロメーターが得られたその後、そのバロメーターに照らした際の「自分の発言の矛盾や問題点を”自分で”見出し、それを修正するという活動」が入り込む余地が、さて、あるのかな?と考えてしまうのです。

■もちろん、”可能性”はあるでしょう。むしろ本来”テスト”なるものは、そのためにこそあるべき手段。

■テストを受ける主体が、自らで自分の足りなさを見出し、その自覚の元に、自ら必要と判断した修正を自らに加える。しかも自らの営為によって。

■その基本は、つまり、自らを聴く・自らを凝視する、ということ。

(ただし、そうしたことを通していくら自分を客観的にみれるようになったからといっても、どこぞの誰かのように、人前で気色ばんで「私は客観的にものが見れるンです!あなたとは違うんです!」などと開き直ってはなりませんぞ。それこそ、まるで客観的視点を持ててないことがバレて、かなりミットモナイですから…)

■さて、昨今催されたあの大々的テスト。

■テストを受けた主体である子ども達が”(自ら)聞き手として受け止め”る過程や、”自分で見出”すという過程の遥か先を越して、よりによってテストをやらせた側の人間が「こりゃアカン!教育非常事態宣言発令や!”行列のできる学力養成所”つくらなアカンで!(←最後の”行列…”は冗談ですけど)」などと声を荒げる事態に。

■このような世情をみると、どうも現状は子ども達にとってはかなり厳しい状況のようで…(もちろん教育委員会、教員各位もかなり厳しいでしょうけど)。

■そして、こういう現状をかんがみたときに、またしても僕は、ここにポニョを絡めたくなるのです。

■曰く言いがたいのですが、あの”収まらなさ”加減。「…で、結局何が言いたいの?もっと言いたいこと、あるんじゃないの?」と問いたくなるような(笑)、鑑賞者の知的欲求・刺激欲求に対する”喰い足らなさ”。そこを僕は敢えて”大らか”と呼びたいのですね。こんな世情だからこそ。

■あの映画、ある意味、とっても不親切な映画だなぁと思います。僕には、監督の宮崎さんが、観る者に向かって作品をドンと手渡すというより、僕らの前に作品をポーンとほっぽり投げているようにも見えるのですね。(ほっぽり投げるの、日本のオジサンたちの間で、いま流行っているんでしょうか?)

■先日会話を交わしたある人(絵本店の店主)はポニョを評して「もう少し丁寧にやって欲しかった」と、非常に意味深い意見を僕に聞かせてくれました。それはそれで、なるほどそうかもな、と思います。たしかに劇中、負の面でそれを感じないわけではありませんでした。

■でも僕には、なんだか宮崎さんが、かなりな労力と精力を注ぎつつ、意図して、不丁寧・不親切を目指したように思えてしかたなく、逆にそこを評価したい気がするのです。ま、もしかしたら僕の”宮崎幻想”もしくは”ジブリ幻想”ゆえの勘違いに過ぎない可能性もありますが…。

■じつは今、道東地方の厚岸町に来ていて、あす子どもワークショップでお世話になる主催者の方々と夕食をご一緒させていただいていたのですが、その席でも、ポニョ鑑賞後の感想では意見が割れました。

■あれはどうも…という方2名(成人)、あれはよかったという僕1名。あと、新聞に酷評が出ていたよという報告も。

■どうも意見が割れる映画のようですね。

■この際ですから思い切って白状すると、冒頭の30分の中で、僕は何回か目頭を押さえました。「ええ、何でアレで泣ける?!あんたの感覚、どうなってんの?」と仰られる方も多々あるかとは思いますが…。

| 備忘録 | 00:10 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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ポニョ3

■昨日の日記「学力テスト」を読み返しながら、8/20付のポニョの日記で僕自らが書いた「大らかさ」ということばを思っています。

■娘に買い与えたポニョのパンフレットのなかに、「監督企画意図」と題された宮崎監督による一文がありました。その最後に書かれていた一節、「神経症と不安の時代に…」ということばもまた、いま思い出されています。

■神経症、不安。

■自分の外のそれをのみならず、自分の中にも強く強く在り続けるそれを、思います。

■そして、ポニョ、なかなかいい映画であるなぁ…、と思い返しています。

| 映画 | 12:42 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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放棄

よく投げ出すね、自民党。
安倍氏に続き、見事な投げっぷり。
投げることに関しては、星野ジャパンより上。

| 時事 | 22:52 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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学力

■全国学力テスト。その結果が公表され、北海道では、メディアが騒いでいます。北海道のこどもたちの学力が、47都道府県中、下から2番目だとか、3番目だとか…。

■数値化、序列化。

■どうして世のオトナたちは、こうも”数値とその比較による順序づけ”に埋没したがるのでしょうかね…。情けなさを覚えるとともに、つくづく不思議になります。

■僕は、「数・数値」によってある抽象的なことがらを定量化したうえで取り扱うということの利便性や有効性を否定はしません。それどころか、「数」という概念を生み出し、数学的思考を自由自在に繰ってきたヒトという生き物の類稀なる知性を、本当に素晴らしいものだなぁと思います。

■しかし一方で、僕は「数量化」と、それにもとづく「比較」「序列化」という利便性に富んだ方法が孕む”麻薬性”のようなものを警戒してもいます。

■「数」は麻薬です。それはモルヒネや大麻などというよりは、多分”覚せい剤”的な性質をもつ麻薬なのだと思います。

■目の前のモヤモヤしたものごとに対し、それを一発キメさえすれば、すっきりクッキリ世界がハレる。特に、自分がアッパー(上向き)傾向の状態にあるときには、その効能は絶大な幸せ感をともなうから、ついつい、何をするにつけてもそれをヤりたくなる。

■そして次第に、それなしでは、モノゴトと正面から向き合えなくなる。本当のところ、それをいくらヤったところで、対峙するモノゴトは本質的にはじつはちっともハレてなどおらず、依然としてモヤモヤとした状態で眼前に横たわっているというのに――。

■もちろん、実際に覚せい剤を使用してみたことはありませんので、これは勝手な想像にすぎませんけれど。でも、同じではないにしろ遠からず…というところではないかと思います。

■僕は日頃からつくづく思っているのですが、この国のオトナ(なかでもとりわけ、社会的にオトコ的な役割を一身に担ったオトナというもの)は総じて、この”数値化中毒”、そして”比較化・序列化中毒”に陥っていはしないでしょうか。

■それは大袈裟な物言いだ、と思うなら、例えば、毎日決まった時間にTVで放映されているスポットニュース報道を見てみましょう。

■「NY株価は、前日に比べ〇〇ポイント下落し…」と、ほぼ毎時間ごとに否応無く見せつけられるあの「数量比較」の営為というものは、いったい何なのでしょう。それを見せられる側にどのようなニーズがあるから、あの機械的営為が、飽くことなく、年がら年中、毎日毎日、毎時間毎時間、繰り返し繰り返し行われているのか。

■あれを見るたびに僕は、この社会がもつ、ある種、病的ともいえる”数的なもの”への執着を感じざるを得ず、それを端的に説明するのに一番適切なことばは”中毒”につきるのではないか…と思ったりするのですが、いかがなものでしょう。

■はなしがズレました。全国学力テストのことでした。

■繰り返しになりますが、僕は「数値化」そのものを否定はしません。いわゆる「テスト」と呼び習わされている、数値化による定量化・序列化、それに基づいて判断なり評価なりを下すという方法も、否定はしません。

■しかし、その方法論や結果・効能の見かけ上の判り易さ・利便性というものにモノゴトの判断の一切を委ねきってしまうこと、そのなかに埋没しきってしまうことは、厳に避けなければならないだろうと思うのです。

■いうまでもなく、「テスト」が行われる際に何よりも大事なのは、量ること・数値化すること・比較することそのものではありません。ましてや、序列化後の位置付けが高いのか低いのかに一喜一憂することではありません。

■本来曖昧で抽象的でつかみ所がなく、アナログ的なゆるやかさと深みに富んでいるはずのモノゴトを、敢えて無味乾燥な数値に置き換えるというときに、決して見失ってはならないこと。それは、その数値化という”力わざ”が何のために行われるかという”目的”の部分です。

■”学力”を点数で量るという。ある問題を与え、それに対する回答が模範解答に照らして正しいか正しくないかによって付与される点数の数量が変わるという。そして、その多い少ないを比較し、それに基づいてある判断を下すという。

■たしかに、そうした「学力テスト」によって量ることのできることはいくつもあるでしょう。子どもの「正解を導き出す力」、学校教育カリキュラムの習熟度、論理的思考力、などなど。

■ただ、出てきた結果を並べ「はい、数字が出ましたよ。数字はウソをつきません。全てが数量的に明らかになりました。比較の上、序列化ができました。あなたたちは下から数えて〇番目です。」と宣言し、それをもって一つの判断をしようとするとき、では、一体何のためにその判断を下すのですか?という問いを忘れてはならないと思うのです。

■もっと突っ込んで言えば、序列化し競争心を煽ってまで”子どもの学力をより高めねばダメだ!”と喧伝することの目的は何なのか。それは一体何のためであり、そしてより重要なこととして、一体全体それが”誰のため”になされることなのか、という問いです。

■学力テストとは、いや、そもそも子どもの”学力”とは、何のため、誰のために必要なの?

■それに対しては、永田町あたりからは、こんな声が聞こえてきそうです。

「グローバル化の進む社会の中では、国際競争力をつけなければ、日本の未来は無い。そのうえで、子弟教育は緊急の課題です。」

■これについては、多くは書きません。でも、ひとことだけ。僕には、この発想こそがすでに重篤な”ある中毒症状”の発露なのだと思わずにおれません。病気です。

■何度もくどいようですが、僕はテストという手法も否定しなければ、”学力”なるものを高めることが全く無意味だ、などといいたいのではありません。ただ、「学力向上!」を叫ぶ掛け声のなかには概ね、そうした”日本的オジサン臭”がかなり強烈に混ざりこんでいることに、僕は嫌悪と違和感を感じています。

■ところで、学力にまつわる”競争”ということについて、昨日ラーメン屋で偶然読んだ8/31付『読売新聞』の社説にこんな一節がありました。テーマはまさしく「全国学力テスト」についてです(読売新聞公式サイト社説欄より一部転記)。

「序列化や行き過ぎた競争は無論、避けねばならない。だが、適度な競争はあっていい。」

■これを読んで、「そうだよなぁ。”何が何でも競争はいけない”というのは極端すぎるな。オリンピックをみれば、競争が個々人の成長に与える影響が小さくないことは明らかだし。適度なものであれば、競争はした方がいいのだ。」などと、簡単に納得させられてしまいそうな自分がいます。

■でも、ここでこそ、いや、ちょっと待てよ…と踏みとどまらなくてはなりません。そして、ここでもまたあの問いかけをしなければなりません。

■その”競争”は、誰のための”競争”なのでしょうか?一体、誰が望んで始め、誰がルールを決め、誰が優劣を判断するところの”競争”なのでしょうか?

■これは、その競争が「行き過ぎ」ているか「適度」かどうかなどということには全くの関係のない、本質的な問題です。

(むしろ、そんなふうに話題を”程度問題”にすり替えることで本質から目をそむけようとするのは、やはり”麻薬的”なまやかし行為と言えるでしょう。こうしたオトナの常套手法には、いつでも注意が必要です)

■いま学力ということについて競争しようとしている、否、させられようとしている主体は、言うまでも無く、具体的な存在である子ども達個々人です。

■「いや、競争させられるのは、各地の教育委員会であり、校長たちであり、現場の教師だ」という見方もあるかもしれません。でも、実際に解答用紙を手渡され、筆を取らされ、正答を書き込むことを要求されるのは、子ども達本人です。

■しかし、そうして競争させられた後、その結果を享受する”受益者”は、だれなのでしょう。それがどうもはっきりしません。それは本当に、競争した主体である子ども達個々人だといえるのでしょうか?

■たとえばオリンピックアスリートは、「誰よりも速く走りたい。高く遠くへ飛びたい。自分ができる最高のパフォーマンスを実現したい!」という個々人の内発的衝動に突き動かされ、自らが思い描いた結果を我が手に掴む為に、自らの意思でその競争の渦中に赴いていくのでしょう。

■では、学力にまつわる”競争”はどうでしょう?

■どうも僕には、この『読売新聞』の社説にみられるような”学力にまつわる適度な競争”というものが、真に、具体的存在である子ども達個々人に益をもたらすためのものであるようには思えないのです。

■現在の社会論調にみられるその競争の”受益者”は、具体的存在であるところの子ども達個々人などではなく、先述したように、「これからのグローバルな国際社会における日本社会を担っていく存在であるところの子ども達」というような、抽象概念の積み重ねの域をでない、じつに曖昧な対象でしかないように思えます。

■子どもの学力の現状確認とその”力”の向上へ向けた取り組みというものが、真に子ども達本人の為のものとなるかどうかの誠実な議論を抜きにして、やみくもに数値化・比較・序列化の結果のみを持ち上げてある評価・判断を下すのは、子ども達に対して不遜であるだけでなく、じつに危ういことだといわざるをえません。

■なぜらなら、僕にはそうした「日本の未来が危うい!学力の底上げが急務だ!」と危機感を煽るかのような論調の背後に、いつか聞いた覚えのある「お国のために」「出せ一億の底力」という掛け声が薄っすらと聞こえてきて仕方がないからなのです。

■いまこそ早急に改善されなければならないものがもしあるとすれば、それは子ども達の”学ぶ力”というよりも、まず、彼らを取り囲んでいるボクらオトナたち自身の”自律力”なのではないかと思います。

■つまり、比較化・相対化、またそこに端を発する「全体主義」などがもつ”麻薬的誘惑”に身を委ねずとも、我が身一つでも混沌とした世界と向き合うことのできる”内発的思考力”、また、物事の表層の裏にしまいこまれた本質・核心部分をこそ凝視することのできる”眼力”なのではないかと思うのですが、どうでしょう。

■ついでに言えば、もしいま子ども達に対して、真に子ども達自身の未来のためになる”力”を教育によってつけてやれるとするならば、僕は、それはまさに”ことばの力”なのだと思います。

■豊かなことばの力の内には、論理を構成する力、物事の理を探り出しそれを命名・定義する力、因果を規定しそれを応用する力、自他の関係性を把握しそれを再構築する力など、算数・理科・社会の中で鍛錬されるべき力の要素が本来的に備わっています。

■子ども達のことばの力を豊かにするためにオトナができること。いまは、それをこそじっくり考えたいものだと思います。

■ただ、間違っても、「漢字や英単語を幾つ覚えているか」とか「何ヶ国語を話せるか」とかというような、判り易すい判断基準にのみ寄りかかって子どもたちを評価する事は、厳に避けたいものです。

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