小寺卓矢・森の写真館 top_image
bar

left_button_spaca.gif
info.gif
left_button_spaca.gif
works.gif
left_button_spaca.gif
profile.gif
left_button_spaca.gif
publish.gif
left_button_spaca.gif
diary.gif
left_button_spaca.gif
link.gif
left_button_spaca.gif
left_button_spaca.gif
ask.gif

2008年11月 | 月別の日記 | 2009年01月

編集

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | コメント(-) | トラックバック(-) | 先頭へ↑

編集

イスラエル

■年の瀬にひどいニュースが飛び込んでくる。イスラエルのガザ空爆。

■日本の大手マスコミに流れるニュースでは、イスラエル当局者の発表をなぞって「パレスチナの武装勢力・ハマスに対する攻撃活動」としての”ストーリー”が紹介されているが、でも、現地から発信されてきたいくつかの声を聞いてみると(たとえそのソースがもっぱらパレスチナ寄りのものであったとしても)、その”ストーリー”は白々しい「虚構」であるかのように思えてくる。

■空爆で破壊されているのは”市民生活”であり、爆弾で殺されているのは、市民だ。

国際協力NGO・日本国際ボランティアセンター(JVC)のスタッフブログ
http://palevdiary.blog36.fc2.com/


ガザより・・・緊急メール アブデルワーヘド教授(転載記事掲載ブログへリンク)
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/40dce0567d85c3c649821753b4676c57

■戦争などしている場合ではないのに…、というつぶやきは、日本でのうのうと年の瀬を越そうとしている「井の中の蛙」のたわ言だろうか…。

■むしろ、こんな世相だからこそ、戦争というものが在り続け、ある人たちにとっては「戦争すること」が重要な意味を持ってしまう――ということなのだろうか…

■そろそろ、「戦争という政治経済手法」に関しても、世界にとっての大きな転換期を迎えてもいいのではないだろうかと、心から願うのだけれど。

■パソコンに向かってつぶやくだけでなく、僕には一体何ができるのだろうか。

■と、これを書いていて、不意に、このあいだテレビで観た歌番組でMr.Childrenが演奏していた「HANABI」という曲の歌詞が頭に浮かんだ。

■歌詞の字幕を読みながら、また歌い手の表情を見ながら、「おや、”たかがJ-POPだろ”などと軽んじて聞き流せないものがあるなぁ…」と、図らずも食い入るように聞き入ってしまった歌だ。特に――

「もう一回、もう一回。
 もう一回、もう一回。」

■この、4回に渡ってしつこく繰り返されるリフレイン。そこに込められているであろうものを、いま、思う。
スポンサーサイト

| 時事 | 10:12 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

News23「凶気の矛先」

■昨夜のTBSテレビ「News23」を、食い入るように見てしまった。特集「凶気の矛先」。

■昨今の雇用不安や生活不安に苦しむ人たちがたくさん登場した。

■彼らの置かれている状況を見て、感じた。

■社会に対して”やり場の無い”状態にあるのは、人々の「不満」「不安」「憤り」といった内的・心理的なもののみでは、すでに無くなっているのだ。

■いまや、人々の具体的な「生活」、さらには「身体」「生命」までもが”やり場”を、つまり”居場所”を失いつつあるという現実。そして、それがもはや、決してある特殊な境遇におかれた人たちに限って起こりうることではなくなっているという事実。

■アメリカの経済破綻を待つまでも無く、じつはもうかなり前からこうした冷たい現実は、誰彼の区別無く背後にヒタヒタと忍び寄っていたのだろう。

■テレビを観ていて、ぞっと背筋が寒くなった。

■社会を覆うこの”冷たさ”は、なんだろう。なぜ人と人との間にこんなにも”うすら寒い”風が吹くのだろう。

■まるで放置された風呂の湯船のように、表層だけはカッカと熱く、しかし、下層には冷水が重たく沈み込んでいる。いまその冷水の層が、厚さを増し、冷たさを増している。

■攪拌しなくてはならない。対流を起こさなくてはならない。でも、どうやってそれをすればいいのだろう――。

■昨夜の番組を観る限り、悲観的にならざるを得ない。

■でも一方で僕は、希望は必ずある、と信じている。

■人間は、どうしようもく非力で愚かだけれど、しかし、確かに”いきもの”なのだ。”生きるもの”として、”生きていくもの”として、非力だからこそ、必要だからこそ”社会”を作って生きてきたヒトの本性が、きっといまの社会の只中にあっても一筋の希望をうむのだろう、と僕は思う。

| 時事 | 10:22 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

12月初旬撮影分

12月初旬に阿寒で撮影。

081209_01.jpg

081209_02.jpg

このコケもゴゼンタチバナも
シラカバの倒木も、
年の瀬が押し迫ったいまとなっては、
もうすっかり雪の下でしょう。

真っ白な氷点の闇に包まれた
それら植物たちのいまを思います。
彼らが身を浴す静寂の
さぞかし深かろう、広かろう、
そして、清かろうことを思います。

また、
冬という季節に
終わりをみたり
始まりをみたりする
このヒトという生き物の不思議さを
思ったりもしています。

| 写真 | 22:11 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

いろいろ

■プライベートで、家族とともに数日間神奈川に帰省しました。

■しかし、貧乏性のぼくは、いくつか仕事の予定も組みこんでしまったため、なんとも慌しい日程に。娘たちよ、妻よ、こんなオトーチャンをゆるしてくれ…。

■でも、仕事では素敵な出会いも。

■来春までに上梓予定の新作写真絵本の装丁をお願いするデザイナーNさんとの初顔合わせ。

■担当編集者Yさんが「素敵なデザイナーさんと出会ったんです!小寺さんの本にはピッタリの方かと…」と、お墨付きで紹介してくださった方。

■で、会ってみると、本当に素敵な方でした。

■事前にNさんのWEBサイトでこれまでのお仕事としてデザインやイラストなども拝見した際、「あ、とても優しい穏やかな空気を感じる!」と思っていたのですが、その期待にたがわぬ、柔らかで優しいお人柄。

■なにより、Nさんもまた”農的生活”に興味をもっているという部分に、僕は興味深々だったのです。

■編集部でYさんも交え、顔合わせと打合せ。その後3人で昼食へいったのですが、そこでの話題はもっぱら家庭菜園のことでした。

■「自宅マンションの庭スペースで小さな畑をやっていて…」というNさん。「ゴーヤーは収量が多くて良かったですよ」というNさんに、「いやいや、ズッキーニもなかなか…」と僕。

■「豆類は、花も綺麗でいいよね~!」などと盛り上がり、さて、新作絵本の話はどこへやら…

■果ては、「シイの実はアク抜きしないでも美味しいけど、ドングリはひと手間かかってね…」などと、話題は縄文的採集生活まで及び…

■でも、そんな話をできるかたと本作りをできるということの、なんという幸せ。

■著者とデザイナーとのこういうマッチ・メイクを演出する編集者Yさんの”嗅覚”のするどさに内心で感謝・感心しながら、素敵な初顔合わせのひと時を過しました。

■また、今回の上京ではもう一件、別の出版社からの児童書出版の話も、ようやく歯車が動き出しました。こちらも大いに楽しみです。

■ところで、昨日自宅に戻ってみると、郵便受けにはあちこちからの郵便物がギッシリ。それらに目を通し、整理するのが、楽しくもあり、また、旅で疲れた身体には億劫でもあり…。

■なかには嬉しい私信もあったのですが、あまり嬉しくないものもありました。

■それは、”脅迫状”。

■じつは、我が家には最近、よく”脅迫状”が届きます。ちいさな娘を持つ僕に宛てた、脅しの手紙です。

■一部、公開しましょう。

「いよいよ、小学校入学まで「残り3ヶ月」―
今から入学までの「1月」「2月」「3月」の過し方で、「勉強が好きな子」「嫌いな子」に分れることをご存知ですか?」

■なかには娘(長女)に直接宛てたメッセージも…。

「クイズにこたえて かっこいい1ねんせいに なろう!
1.どんなクイズにもどんどんこたえられるようになるよ!
2.おうちのひとがビックリすることまちがいなし!
3.おともだちにスゴイっていわれるよ!
4.4がつにしょうがっこうでだいにんきになれる!」

■この手の”脅迫状”は、この先もたくさんくるのでしょうね…。「英会話レッスン、いまからスタートしないと間に合いません」とか…。

■いっそのこと、郵便受けに以下のような”宣言”を貼り付けておいてみようかな。

”脅迫やテロには屈しません!”(笑)

| 備忘録 | 10:58 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

白川静

■今日も読書ネタで…。

■今日午前は、帯広市内の某小学校で行われた劇団Kの公演の舞台撮影仕事。

■これ、以前からたびたび関わらせていただいている仕事なのだけれど、個人的に、お声を掛けていただく事が本当に嬉しいお仕事。

■プロによる舞台演劇を生で体感できること自体も当然大きな楽しみなのだが、さらなる嬉しい”役得”は、上演後の劇団員達のミーティング(反省会)を垣間見れることかもしれない。

■プロの表現者達が、一発限りのパフォーマンスを行った直後に、自分たちの表現を更に更に研ぎ澄まそうと真剣に話し合いを重ねる、その緊張感に満ちた現場に同席させてもらうということ。

■これを役得と言わずして、なんと言おう。

■ところで。

■開演前、控え室で演出家Nさんに「よろしくお願いします!」とご挨拶したとき、Nさんの前に置かれていた本に思わず目が留まった。

■その2冊の本は、どちらも漢字学の大家・白川静氏に関する新書だった。

■「白川漢字学に関心があって、いま読んでるんです。この本は、白川さんについて他の著者が書いた新刊ですけれど、白川さん自身の著作代表3部作『字統』『字訓』『字通』を買おうかどうか、いま迷っているところなんです」とNさん。

■おや、なんと!これはまた不思議な偶然。

■じつはこの僕も、”ことば”というものへの関心から、ちょうど最近、俄然白川漢字学に興味が湧いてきたところ。

■Nさん同様、僕もまた、まさにその代表3部作を買おうか買うまいかを悩みに悩んでいる最中であり(それぞれが結構お高い本なので…)、つい数日前などは、撮影に向かう道すがらに立ち寄った書店で、悩みついでに1時間も『字訓』や『字統』を立ち読みしてしまったくらい、関心がある。

■で、開演前の短い時間ではあったけれど、Nさんから白川漢字学のユニークさや漢字・ことばの面白さについてあれこれ話をお聴きする事になったのだった。

■タイミングとしてはあまりに出来すぎで、なんだかおかしいのだけれど…。

■しかし、もうこれは、「さあ、迷ってないでお買いなさいナ」という天の囁きに違いなく…帰りに書店に寄って、『字訓』ともう1冊白川著作をエイヤ!と購入。

■積読本がまた2冊増加か…。でも、『字訓』に関してはそもそも辞書だから、正確には積読本には該当しないか。

■それにしても、ああ、ページを開くの、楽しみだなぁ!

-------------------------------
ところで、今日上演された劇団Kの演目の重要なテーマの一つが、つい先日この日記(12/8付「山尾三省著『ここで暮らす楽しみ』)に引用させてもらった山尾三省氏のことばに込められた価値観ととても通じるものだった事にも、不思議な気持ちになった。様々なものごとがゆるやかに繋がっていく不思議。

| | 21:26 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

読了2冊

■冬の撮影は、日が短いだけに早く切りあがる。で、それから後、寝るまでの時間が長い。

■だから、冬に撮影に出かけると、夜にたっぷり本が読める。(家に居るときには、かわいいチビ小猿2匹が”トーチャン、トーチャン!”とまとわりついてくるので、本などゆっくり読めない…)。

■一昨日までの数日間の撮影行では、すでに半分くらいまで読み進めていた山尾三省著『ここで暮らす楽しみ』を一気に読了。その勢いで、福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』を、これまた一気に読了した。

■方や詩人が島での暮らしを綴ったエッセイ集、方や分子生物学の第一人者である大学教授がその専門分野に関わる事柄を綴った科学ノンフィクション。

■しかし、切り口こそ大きく違えども、どちらも主題は「(生命体として)生きる」ということの仕組みや意義・意味に関する根源的な問いかけと、それぞれの立場からのその問いに対する思索の表明であったように思う。

■”積ん読本”の中から偶然この2冊を選んでもっていったのだけれど、面白い符合だ。

■でも、ま、これらの本を手元に置いたという時点ですでに”僕の関心事”というフィルターが掛かっているわけだから、主題が似ていても当然といえば当然か…

■それにしても、どちらの著書においても、「生きる」ことを考えるときに鍵となる概念として、いってみれば「空(くう)としての存在」というものに言及していることが、とても興味深く、こころに響いた。

■特に『生物と…』のなかで知らされたこととして、時代の最先端を行く生物科学が20~21世紀に到達した生命の定義の要点が、要するに「固定化された不変の実体としてではなく、むしろ絶えざる”流れ”としてある在り様(そのようにあり続けようとするシステム)」というものであったという事実には、うーむと唸ってしまった。

■僕は読了後直ちに、以前(10月22日付)この日記のなかでも引用した『方丈記』の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして…」の一節を思い出さずにいられなかった。

■13世紀初頭に書かれたとされる随筆文学と、21世紀の分子生物学と…。ふーむ。

■ではでは。

■かくも拙いこの僕は、おこがましくもこの時代の片隅において、写真という媒体で、何を現し(著し/表し)、何を言う――?

■ともあれ、どちらも面白い本だった。そして、それにも増して、面白い読書体験となった。

-------------------------------
で、この日記を書き終えたたった今、自宅で新たに読み始めたJ.ブロス著『植物の魔術』(八坂書房)の冒頭辞の1行目に目を通して、また、ウーム。

そこには著者の挨拶として「私は自然研究家であり、また禅僧でもあるので、…」云々。

僕もいっそのこと、本を読むより禅の修業でもはじめたほうが、ことが早いかしらん…?笑

| | 00:13 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

人を大事にできる人

■昨夜まで撮影に出かけて留守にしていたので、今日の午前中はあちこちへメール連絡のまとめうち。

■いつものことだけれど、ちょっとした雑談程度のメールにどうしてか必要以上の字数を費やしてしまう。こまったクセで…。

■午後になり帯広へ。今日、深川市から友人Kさんが用事で帯広へくることになっていて、会おう!ということに。

■彼女は、本業はレストランのオーナーシェフなのだけれど、それ以外に、じつにユニークかつ多様な活動を展開するバイタリティあふれる女性。知人である児童文学作家の朗読会を彼女が企画したことがきっかけとなり、去年、人づてに知り合った。

■15時にKさんの宿泊先のホテルで待ち合わせ、そのまま車で市内の印刷会社Sへ。

■Kさんは先日、この会社が出版する某雑誌の人物紹介記事でその活動を大きく取り上げられたばかり。で、「せっかく帯広にいくのだから是非編集部を訪ねたい!」とのことだったので、ついでに僕も一緒についていくことに。(じつは僕もまたこの雑誌に号違いで取り上げてもらったことがあるので、そのお礼のご挨拶も兼ねて)

■S社に着き、編集長Mさん、S社社長と談笑するKさん。Kさんのこれまで様々な取り組みの報告と、今後の”野望”が語られる。

■その話を聞けば聞くほどに、僕はこのKさんという女性の類稀なる特質につくづく感心してしまう。

■とにかく彼女、様々な場面や出来事のなかで生じた”人とのつながり”というものをとことん大事にできるひとなのだ。

■地域の人のつながり、友人や知人とのつながりを、こころの底から、利害関係など抜きにして大切に大切にしていることが、ことばの端々から感じられる。それも、相手がどんな立場の人であろうと、どんなかかわり方をしている人であっても、その相手への飾らぬ尊敬の念を忘れない。かといって、彼女自身が卑屈に小さくなることはない。

■自然体。そして、いい意味での「無邪気さ」、つまり邪気の無さ。それをここまで他者との関係のなかで快く保てる人物はそういないように思う。

■それだからだろう、彼女が行動を起こすときには、そこにどんどん人が吸い寄せられ、繋がってゆく。そして、その人たちとの出会いを彼女はまたしても大切にする。

■うーん、やはり凄い人だ。

■それに引きかえ…何事にも理屈ばかりこねて、ちいともハートのこもらぬ、卑屈癖の染み込んだ我が身を振り返り、僕は小さくなる。

■僕は、特に”他者との関わり”においては、昔からずっと自分自身の中にネジレたものを抱えつづけてきた。

■北海道に来てからだいぶそのネジレがほぐれてきてようにも感じるのだけど、しかしこうしてKさんのような人が放つ”真っ直ぐな光”に照らしてみると、そこにはやはりかなりイビツな影が浮かび上がってくる…。

■他者と自分を比較して自分に無いものをやみくもに羨んでも仕方が無いことはわかっているし、そもそも、人はそれぞれ十人十色の凹凸を抱えてながら生きていることも、わかる。全き珠の如き完全無欠な人物などがその辺にごろごろ居たら、逆にキモチワルイではないか。

(そして、結構肝心なことかもしれないが、様々な側面での人格的ネジレとイビツをもっている人間だからからこそ僕は”写真”なんぞを撮っているのだろうな、とも思う。そのネジレが中途半端な故に”写真が突き抜けない”という悲しい事実も一方にあるけれど…)

■しかし、自己卑下の無意味・無価値はわかりつつも、今日はやはり、僕は小さくなる。せっかく素敵なKさんに久しぶりに会ったのに、こんな後ろ向き日記を書いたりする。

■こんな気持ちになるのも、冬だからかなぁ…。冬って、だいたい毎年こんな”後ろ向き”体質になるんだよなぁ…。窓の外ではまだしんしんと、十勝らしからぬベタ雪が舞い落ちている。

| | 23:36 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

山尾三省「ここで暮らす楽しみ」

■知人から借りて、いま、山尾三省著「ここで暮らす楽しみ」(山と渓谷社)を読んでいる。

■詩人また思想家として著名な山尾氏については、じつはかなり前からさまざまな文献や会話のなかで見聞きをし、その人物像や思想の輪郭はぼんやりと知っていた。

■しかし、かなり高い関心をよせていた人物だったのにも関わらず、なぜだかいままで氏の書いた文章やことばそのものに触れる機会を僕は持たずにきた。我ながら、不思議だ。

■さて、こうして改めて氏のことばに直接に触れてみると、非常に共感を覚える部分が多くいことに今更ながらに驚く。

■無論、山尾氏は、思いや実践においては、僕のようなものが「共感」などといってはおこがましいほどの大先達なわけだけれど…(ちなみに山尾氏は故人である)。

■特に、”自然”との対峙のなかにおいて、彼が何を実践し、何を見つめようとしていたのかという部分に関しては、僕などはもうとにかく、合点!と膝を叩くしかない。

■この著書(アウトドア雑誌である月刊『Outdoor』に’96~’98年に連載されたエッセイをまとめたもの)から一つだけ、以下に氏のことばを抜書きしたい。昨日読んだページのうち、もっとも響いた箇所だ。

■ただ、この一文、様々な思索を経て氏が到達した「アニミズム」という考え方(価値観)についてのある程度の理解がないと、少し解り辛い、もしくは誤解を生じる恐れのある一文であるかもしれない。

■特に「神」または「カミ」ということばについては、なにかと”フィルターノイズ”が多くかかりがちな概念であるので。まぁ、本書の内容を全てここに紹介できればそんな心配は杞憂に終わるのだけれど…(本書では、なぜ山尾氏がわざわざ「神」と「カミ」を区別しているのかも良く解るように説明されている)。

■宗教的なテイストを含む論説にアレルギーのある方には、できれば、いわゆる既存宗教(特に一神教)の”神さま観”から切り離してこの一文をご一読願えれば、幸いだ。

■僕としては、特に後段の一文は、前々回のこの日記(12/5付「11月撮影分」)への補記ともしたい。そこに込められた自然観のエッセンスこそが、僕があの日記につけた舌足らずで不親切で思わせぶりなコメントを力強くフォローしてくれるように思う。

■またそれは、拙著「森のいのち」の最後のページに込めた思いにも、じつは通低している。

(なおさら解り辛いゎ…と言われたらそれまでだけど…笑)


以下、抜粋転記----------------------

  ぼくがアウトドア、あるいはアウトドアライフというこの時代の潮流を深く肯定するのは、この個人、あるいは孤人にさえ閉じこめられている生命が自然という無限のカミの只中にさらされることによって、自分の生命もまたひとつのカミであり、カミが与えてくれたものであることに気づいて、その生命力がより充実し深まる可能性にさらされると考えるからである。
  自分とは何か、を尋ねて行けば、それはきっと神ないしカミに到る。神あるいはカミとは何か、を尋ねて行けば、それは必ず自分に到る。

 山尾三省著『ここで暮らす楽しみ』より抜粋

-------------------------------


070816-19_02.jpg

春日山・柳生街道の石畳の朝
(奈良県/07年8月)


070816-19_01.jpg

春日大社
(奈良県/07年8月)

*写真は山尾氏の著作とは直接関係はありません。

| | 13:54 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

只今昨年の写真の整理中…

070610_04.jpg

ブナ
(青森県十和田市/07年6月)


070610_01.jpg

ユズリハの新葉と花
(青森県十和田市/07年6月)


070610_03.jpg

倒木/キツツキ食痕にコケ
(青森県十和田市/07年6月)


070610_02.jpg

コウライテンナンショウ
(青森県十和田市/07年6月)

| 写真 | 17:15 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

11月撮影分 

081112-14_04.jpg

「あなたはどこにいるのか」。
いつもそれを問い、
そして、いつでもそれを問われている。

| 写真 | 10:23 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

故人を偲ぶ”ニュース”とは

■昨日(2日)の昼過ぎ、13時のNHKニュースだったろうか。

■トップニュースは、先のインドのホテル占拠事件で死亡した邦人男性の葬儀が行われた、という内容。

■葬儀場の映像と、葬儀がどのように行われたかという事実関係のコメントのあと、故人の友人2名のインタビュー録画映像が続いた。

■ひとりは「彼とは互いにフォークソングクラブに所属し、互いの家で泊まりあう仲だった。残念でならない…」というようなコメント。

■もうひとりは「彼は僕ら友人たちのなかではヒーローのような人だった。どうして彼がこんなことになるのか、解らない…」と、声を詰まらせながら。

■その後、カメラはライブのスタジオにもどる。

■いま流されたそのインタビュー映像をモニターで見ていたであろうアナウンサーのうつむいた表情が画面に映る。そして、一呼吸あったのち、アナウンサーはその目をゆっくりと上げる。故人への同情の念か、はたまた不条理な悲劇への怒りか哀しみか、憂いをにじませたようなその瞳が、カメラを通してこちらを見つめる。そして彼は「次のニュースは…」とことばを継いだ。

■つまり、インドの件は、それだけだった。葬儀の様子と、友人のコメント。たったそれだけの内容がそのニュースの全てだった。それが、今日の昼過ぎのトップニュースだった。

■これを見ながら、改めて僕は、ニュースとは何か、報道とはなにか、ジャーナリズムとは何か、また、公共放送とは何かを考えざるを得なかった。

■これは、いったい、誰のための、そして、何のための”ニュース”だったのだろうか――

■たしかに僕は、この”ニュース”を通じて、葬儀があったという事実を知った。そして、インドで起きた事件についてまたひとつ情報のコマを増やした。また、このことを通じて、あらためてこの事件の全体像に思いを馳せた。

■さらには、友人二人のコメントを通して「彼がこんなことになってしまった」ということの悲劇性を認識するに至った。この事件がじつに悲しい事件であったことを、至極当たり前のことではあるけれど、再度確認するに至った。

■きっと、この”ニュース”報道によって行われた情報伝達のうちには、僕も含めそれを受け取るべき不特定多数の視聴者にとっての、何かしらの「知らされる意義」が含まれていたと認めてもいいだろう。この”ニュース”が全くの無意味だとは、僕は決して思わない。

■だがしかし、と思う。

■さてさて、この事件について大変重要であるはずの、「どうして彼がこんなことに…」という問い、つまり、このさき決して繰り返されてはならない悲劇を生んだ事件の原因そのものへの切実なる問いは、いったいどこへ向かったら(向けられたら)いいのだろうか。

■なにしろ今日の昼過ぎのトップニュースは、その問い自体には一切深入りせず、悲劇を悲劇として伝えたままで、次のニュースへと移っていってしまったのだ。

■はたしてこの問いはこのままで、つまり、収録ビデオテープの中にそっと封じ込められたままで、荼毘に付された故人の遺骨同様、TV局のお蔵の棚にひっそりと安置されてしまうだけなのであろうか――

■うーん…。考えてしまう。

■「惜しい人を亡くして残念だね。なんとも悲しくて、許されざる事件だね…」とは思う。心情はゆすぶられる。

■でも、それだけでいいのか――?

■今回の件に限らず、僕は以前から、いわゆる「報道」というものが、特に人の”情動”に働きかける性質を持つ情報の提供をする際の作法について、たびたび違和感を感じてきた。

■特に民放TV報道がよく行う、物悲しかったりオドロオドロしかったりするBGMや、不安を掻き立てるような手ぶれ映像や隠し撮り風映像をともなった、見るものの感情に積極的に働きかけてくるような情報伝達の仕方に強い嫌悪感をもっていた。

■それは感情の意図的かつ一方的な操作であり、それによって少なからぬ視聴者は、無意識のうちに自律した判断意識をそがれていくことになるからだ。

■昨日のインドの件の放送に関しては、BGMも極端な演出映像もないから、それらの悪例と全く同列に語ることはできないだろう。

■しかし、僕はこの「葬儀が行われました」報道に関してもやはり、そうした悪例にどこか通じるような違和感を感じないわけにはいかなかった。

■報道が、事件・事故の本質的課題を問わずして、ことの悲劇性・不条理性のみを伝えて終わる、というあり方。視聴者の「理」や「論」に働きかけるのではなく、「感」や「情」のレベルで情報伝達を寸止めする、というやり方への、拭い難い疑念だ。

■はたして、僕らはこの”ニュース”に触れる事で、何について理解を深め、それに基づき何を考えるべきなのか。

■僕らはただ、涙をこらえてコメントをするこの二人の旧友に同情し、また、優秀かつ善良な人物であったに違いない故人の死を惜しみ、彼を巻き込んだ事件の不条理に、やり場の無い怒りの感情を高ぶらせていれば、もうそれでいいのだろうか――

■逆にいえば、伝える側であるNHK報道デスクは、いったい僕らに何を得させたくて、こうした取材をし、こうした編集をし、こうした”ニュース”を僕らの前に提示したのだろうか――

■もしかしたら、「情」レベルでの情報寸止めという方法を選んだ側には、じつはこんな言い分があるのかもしれない。

■「悲劇の原因など、改めて問うまでもないじゃないですか。それはすでに自明なのですよ。すなわち、”テロ”ですよ。過激派の存在、テロリストの存在こそが原因です。それはすでに皆さんおわかりのことですよね。この事件の問題の所在は、それをもってして十分明らかではないですか。いま善良なるミナサマやワタクシタチがなすべきは、無法を行う過激派に”怒り”、テロリストを”憎む”という事ではありませんか」と。

■そうなのかな――それでほんとにいいのかな――

| ぼやき | 02:23 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

編集

更新できず…

■半月ぶりの日記更新になってしまった。書くべきこと、書いた方がいいこと、いろいろあるのですが…。

■取り急ぎ、備忘録。脈絡もなく、順不同で。

・真に自分に誇りを持つための最低条件は、まずは真摯に自分を見つめ直すことだろうと思うのだが。自己の活動への肯定も否定も、全部ひっくるめて。

・なんでもかんでもテロ・テロと叫ぶべからず。なんでもかんでも危機・危機と騒ぐべからず。じつは事態はそれほど単純なことではなく、同時に、それほど複雑なことでもなかったりする。

・D3Xは高かった。

・思えば、最近大きな失敗体験ってのをしてないな。これはある意味、人としてマズイぞ…。

・マ行の音を含むことばに惹かれている。

・なにはともあれ、なにはさておき、とりあえずは、「いっしょにやっていく」ということだけは譲らないで生きていく、ということ。そういう方針。

・そうはいいつつ、いや、それゆえに、そんな方針なんかより、また、「何を・どうやって生きるのか」ということなんかより、「誰と(何と)一緒にやっていくのか」ということこそは、案外なにより大切なのかもしれぬ。あと、「どこで」、ということも。

・視野が55mm画角相当の僕と、90mm画角相当のO氏(ともに@APS-C)と食べたトンカツ定食。Wynn Bullockの作品集をめくりながら。水と宇宙と山尾三省の話題をおつまみ代わりに。視野狭窄者2名による、間の良いひとときだった。

・新作のツメの作業、果てしなく…。ここが正念場。ことば選び、ことば探し、ことばとの出遭いに賭けて、託して――。ことばとは、そのもの自体であまりに貧しく、乏しく、しかしそれゆえ、思いを賭するに相応しく重い。また、取っ組み合うに相応しく手強い。

・それにつけても、D3Xは高い。


081112-14_03.jpg

写真:満月に照るオンネトー
(判り難い写真であるうえに、邪魔な著作権透かしまであり、どうもすみません…)

| 備忘録 | 22:16 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

2008年11月 | 月別の日記 | 2009年01月


bar.gif
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。