小寺卓矢・森の写真館 top_image
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2012年02月 | 月別の日記 | 2012年04月

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東京

先日、2泊3日の短い日程ながら、東京に出ていました。

主な要件は、もうじき上梓する予定の新刊写真絵本についての打ち合わせ。


版元アリス館の編集者、デザイナーさん(今回もアリヤマデザインストアさんにお世話になります)、印刷会社の担当者の方と、色校を行いました。
若干の修正は必要ですが、傾向としては初校の時点で結構良い色が出ています。

乞うご期待。

せっかく東京に出たので、他にもいくつかイベント関係の打ち合わせをしました。
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| 備忘録 | 09:28 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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暮しの手帖

3月24日発行の『暮しの手帖57号』のエッセイコーナー「すてきなあなたに」で、拙著「だって春だもん」が紹介されています。

いつもお世話になっている広島在住のエッセイストSさんが、昨年主催してくださったホームスライド上映会のことも交えて書いてくださいました。

エッセイタイトルは「みんな知っている」。ぜひお読みください!

| お知らせ | 13:59 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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上士幌中写真展を観る

もういっちょ、日記を。

今日は上士幌へ行き、上士幌中3年生の卒業写真展を観てきた。担任の石川先生、お連れ合いのNさん、愛娘のUちゃんもいっしょ。

生徒たちの写真、面白かったなー!こんなありきたりな言い方で生徒たちには申し訳ないが、ほんと、一枚一枚が個性を放っている。

僕の横で石川先生が「この写真を撮った子は、じつはこんな生徒で…」と、僕の知らない撮影裏話なども教えてくれたこともあって、一つひとつの写真と向き合うのが、本当に楽しかった。

大げさな言い方ではなく、ニンゲンっていいな、って思えたよ。

一枚一枚の写真に、ちゃんと、ニンゲンがニンゲンとして何かを見つめようとし、実際に見つめ、それを「表現」に昇華させようとした営みが感じられたもの。


そうそう、石川学級のみんなは、全員が自分の望む進路をしっかりその手に獲得できたのですね。

おめでとう!よかった。

どうかどうか、新しい環境のなかでも、あなたというニンゲンとしてちゃんと在りますように。そしていつかまたどこかで会えますように。

それまで僕もちゃんと怠けずにニンゲンでいたいと思います。

| 備忘録 | 22:50 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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上士幌中学校写真展

■ここ数年、生徒たちへの写真ワークショップでお世話になっている十勝管内上士幌中学校の石川晋先生から連絡をいただいた。

■一昨年から「写真絵本づくりプロジェクト」を行ってきた現3年生たち。彼らの活動の最後の晴れ舞台となる「写真展」が今日から開催されるとのこと。

■石川先生のブログ「すぽんじのこころ」にもお知らせがのっています。

■お近くの方、ぜひ生徒たちの力作をご覧下さい!

「すぽんじのこころ」

【写真展開催中!】
生徒が小寺卓矢さんと撮影した写真の写真展開催中です!

上士幌中学校卒業写真展

 今日やっと写真のタイトルをつけてきた。
 上士幌町生涯学習センター。ぜひいらしてください。

| 備忘録 | 16:18 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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危ぶむ声

<大飯原発>再稼働、政治判断へ 安全委が審議終了【河内敏康、野原大輔】
毎日新聞 3月14日(水)2時32分配信
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20120314k0000m010106000c.html
という記事に、以下のような文面があった。

「再稼働が実現しなければ、5月には全基が停止する見通しで、電力使用量がピークとなる夏場の電力供給を危ぶむ声も出ている。」

物足りなさを感じたので、試みに、上記文面を一部書き換えて補記としてみた。

「再稼働が実現すれば、以降は各地の他基も芋づる式に再稼働する(かもしれない)見通しで、未だ原因究明どころか正確な現状把握すらできていない東電福島第一原発事故の二の舞を危ぶむ声も、民族や居住地域を越えた世界の津々浦々から出ている。」



前者も後者も、どちらも「危ぶむ声」である。その意思が求める結果において相反する「声」である。

さて、いまどちらの「声」に真摯に耳を傾けるべきか。そのどちらにこそ人間としての真剣さと切実さをもって応えるべきか。

できれば、その「声」を発している人々の顔や立ち姿を脳裏に思い浮かべながら、わたしにつながる具体的なこととして、この「声」について考えたい。

つまり、誰が、どんな顔つきで、どこから、誰に向けて、どれくらいの真剣さをもってその声をあげているの~?っていうことだ。

後者については、真剣に全人格をもって切実に声をあげ続けている人を、僕は何人も思い浮かべることができる。

でも、前者について真顔で本気になって危ぶむ声を聞かせてくれた人とは、実体験としてもメディアを通じても、残念ながら出会ったことがない。

「そういう声があるらしいよ」と“伝聞”や“評論”を知らせてくれる人はたくさんいるけど。

ともあれ、もし仮に、それら「危ぶむ声」のどちらもが、実存する人間ののっぴきならぬ切実さ、誠心誠意から出されたものだとするならば、それら相反する「声」の双方に応える方策は本当に無いのか、知恵を絞って考えたい。

いのちには、知恵がある。ましてやヒトには。人間には。

| 備忘録 | 11:46 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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瓦礫処理

新聞を見ても、テレビを観ても、いま震災瓦礫処理に関する話題が多い。現に、切実な問題だ。

ただ、「痛みを分かち合おう」がひとつの合い言葉になっているようで、瓦礫の放射能汚染を理由に受け入れを拒否する自治体やそれを支持する人びとのことを「人でなし」扱いする風潮が一部にあるのが気になる。

この日本列島で長く尊重されてきた道徳観に照らしても、そういった「公の為なら痛みを分かち合うべし」との論理は強い説得力を持つようだ。

現に、その”伝統の道徳観”を尊ぶ人の中には、瓦礫の拡散を反対する人びとに向かって問答無用で威圧的に「黙れ!」と一喝して憚らないオジサンもいる。

(何だか、東も西も「問答無用!」がまかり通って息苦しい。本当にココは民主主義国家かいな?そういう「問答無用!」的なオジサンたちほど、例えばお隣さんのことを「非民主的だ!」なんて小バカにする傾向が強いけど…)

ともあれ、今回の瓦礫の「分かち合い」については、いろいろ思うことがある。

一番シンプルな部分だけ書いておくと、放射能汚染云々のことは脇においても、本当の本当に、被災地もしくは被災地近辺で、その地域に住む人たちの負担にならないような形で瓦礫を安全に処理(保管も含む)することはできないのだろうか?

なんだか、そのことの誠実な検証を抜きにして「痛みは分かち合う」という前提だけが先走っているように思えてしまうのだ。単に僕の勉強不足なのかな?

さっき、所属するMLで、被災地に在住する人からの声として次のような文面が紹介されていた。

「オレ被災地宮城内陸に住んでるけど、ガレキ保管の空き地なんかいっぱいある。ガレキなんか、安全な焼却設備と費用があればどうにでもなる。他県への押し付けは、違う意図、利権の臭いがするなあ。」

ネット経由の又聞き情報なのでその発言者個人を僕はよく知らないし、発言の真偽を検証することはいまは僕にはできない。

ただ、自分自身の素直な感覚として僕は「よく考えれば、そうかもしれないなぁ…」と思うのだ。

本当に瓦礫は、いま、遠い他地域へ運び出して処理しなければならないのだろうか。繰り返しになるが、これは、放射能汚染拡散をどう考えるか以前のこととして。

それが不可能、もしくは、選びうる選択肢として明らかに合理性に欠く、というのなら、そこから先は「どう分かち合うか」の議論になっていくとは思うのだけれど。

感情の側面、「道徳」的側面では、「被災地は地震と津波で苦しめられたのに、さらに瓦礫の痛みにもずっと耐え続けろというのか」という言葉には心が動く。他人事ではない。

ただ、世の中全体、また国家や為政者が「道徳」や感情論を持ち出して何かコトを始めようとしたときには、特にこのニッポンという国においては、僕は個人的に、それへの同調より先に「警戒感」の方が先に立ってしまう。

僕は単にひねくれた「人でなし」なのかもしれない。被災地、被災者の痛みに対する想像力が欠如した冷血ニンゲンなのかもしれない。こんなブログを書くと「黙れっ!」と一喝されそうだ。

しかしやはり、何事についても「いったんは自分の頭で考えてみる」ということは手放したくはない。本当なのかな、と僕は考えてみたいのだ。

それを考える為のあくまでも”一材料”として、先のMLからの情報に同送されてきた関連情報を以下に記しておきたい。

大事なのは、知り得た事、感じ得た事を、自分の頭でよく吟味し考える事だ。そうでなければ、行動も、ことばも、本物にはならない。

続報・東京都と東電子会社が瓦礫利権 都1億、東電140億
http://sekaitabi.com/garekiriken.html


「みんなの力で瓦礫処理」
http://blogos.com/article/33513/


他人事とせず、よく考えたいと思う。

他人事とし、よく考えないことの「罪深さ」をこそ、この一年間あまり、ずっと問われ続けてきたと思うので。

| 備忘録 | 13:05 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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3.11メモリアル「いのちをつなぐ、明日を考える」

この日記にも全然事前情報を載せられなかったのだけれど、今日、札幌市民ホールでおこなわれた「3.11メモリアルコンサート&報告会「いのちをつなぐ 明日を考える」」に参加した。

主催団体からみかみめぐるさん、小野有五さん、被災地避難者2団体のそれぞれの代表である宍戸さん、本間さんからの報告、そしてジャーナリスト佐野眞一さんの講演が第一部。

第二部がコンサート。そのコンサートプログラム中、カンテレのあらひろこさん、馬頭琴&喉歌の嵯峨治彦さん、アフリカンドラムのジンベクラブの皆さんによる演奏のバックで、大きなスクリーンに森の写真を上映した。

準備段階の写真のセレクトから、じつに「荷が重い」仕事だった。

このイベントに参加することが嫌だったわけではもちろんない。

むしろ、昨年3月11日以降、震災がもたらした現実に対してあまりの自分の非力さを感じ続けてきた身にとっては、このような企画に自分の職能である写真で参加が叶うということだけでも心底嬉しかったし、実際、自ら望んで参加させてもらった。

ただ、だからといって自分の非力さには何ら変わりはなく、自分の拙い写真が震災に対してなし得ることとは一体なんなのかよくわからぬまま。

このような、「収束」など程遠い激烈な痛みのさなかにある問題と向き合う場において、自分の拙い写真を用いて何かするということは、正直、本当に重たかった。

写真を選ぶ際、もちろん僕の念頭には、森や自然が垣間見せてくれるいのちの清々しさ、美しさ、逞しさから明日を生きる希望や力を得られたら…という願いはあった。実際そのように写真を組んだ。

しかし、それを願えば願うだけ、それが単に震災の真の痛みを知らぬ者による自己満足の戯れ事にすぎないのではないかという念も湧いてきて、悩んだ。

地震と津波によって、あまりにたくさんの人と物事が深刻に痛んだ。そして、東電原発が撒き散らした「害毒」によって、森も痛み、自然も痛んだ。

その深刻さと、僕は果たして向き合えるのか。

東電の原発を爆発させたのは、安易に「安全神話」を許容してきたこの僕自身なのだ。深刻さの外側にいるような風で「森は美しい!いのちは逞しい!かけがえのない自然を大切に」などと微笑んでいられるのか。

しかし、結局はとにかくもう、そんな我が身のいかがわしさも呑み下し、いま込められるだけの誠意を込めて、写真に写っている草や木など被写体たちそのものの力に信頼して(すがって)、「やる」しかないのだけれど。

今日我々が担当した時間帯は、コンサート内容を4パートにわけた。嵯峨さん、あらさんのそれぞれのソロパートから始まり、二人の合奏を経て、太鼓が混じり合うラストへ至るという流れだ。

全体の構成を担っていた僕は、それぞれのパートにテーマを決めてタイトルをつけ、パートの区切りごとにその文字をスクリーンに写すことにした。

当初それは「大地へ」「光へ」「いのちへ」「明日へ」としていた。

ただ、前日になって急遽、全て「…へ」ではなく「…に」に変えた。

何度も何度もそのタイトル文字から始まる映像を見直しているうち、この「…へ」という語尾が含む欺瞞の悪臭に気づいたからだ。

「収束」など絵空事でしかない現状の中で、「…へ」などと方向を指し示すことができるだけのまっすぐな指を、僕は果たして持っているのか。

痛みの只中にあるいのちに対し、自然に対し、あまりに安易ではないか、あまりに能天気ではないか、あまりに尊大ではないか。

偉そうに「大地へ」「いのちへ」などというよりまえに、いまヒトとしてなすべきは、穢した大地“に”詫びることであり、痛んでもいのちであることをやめないいのち“に”真摯に学びを乞うことであり、そして、せめてもの希望を光“に”託し祈り委ねることなのではないか。

「~へ」などと手前勝手なベクトルを定めて視座の主体者を気取るより前に、今なすべきはむしろ、それら大地やいのちが無言のうちにヒトへ投げかける問いかけに、誠意を持って向き合うことなのではないか。

今を問う抜き差しならぬ「眼差し」は、ヒトの方へこそ鋭く差し向けられている。

自分で撮った写真に映る森の草や木、虫たちの姿と向き合い、また、ちょうど一年前にあまりにもたくさんのいのちが失われていったことに思いを寄せるうち、そんな考えに行き着いたのだった。

まあ、いつものように、考えすぎかもしれない。

たかが1文字の言葉の問題だ。

しかし、今日の報告も講演も、現実は決して生易しいものなどではなく、極めて深刻で重いのだと、切実な言葉で伝えていた。

人が人として生きる上ではやはり、「されど、されども、ことば」なのだ。

大好きな音楽家たちと、3/11という大事なひとときに心を合わせることができた嬉しさを感じながらも、やはり今日は重たい一日だった。



| 備忘録 | 10:16 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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久々の更新

一ヶ月近く更新していませんでした…なんだか気ぜわしい毎日で…。

箇条書きでこれまでの出来事やこれからの予定等。

・道教委の仕事で蘭越中と和寒小へ。スライド上映。

・十勝毎日新聞社関連のお仕事で「ぴぴっと森の探険隊」にて講師。

・確定申告無事終了。しかし、今年もまたあからさまになった所得の低さは全然”無事”じゃない…。ため息。

・娘二人、立て続けにインフルエンザ感染(お陰様で長引かず完治)。

・NPOで関わることになった町内の仕掛けの大きな新規事業、本格始動。

・NPOの仕事で霧多布へ。仲間といっしょに楽しくNPO交流してきました。

・バレエ公演(発表会)の撮影で根室へ出張。ジゼル全幕上演という本格的な発表会。撮り応えがありました。ダンサーたちが一生懸命で美しいので、写真をこのブログにも載せたいくらいですが、まだ許可を得ていないので載せられません。

・劇団風の子九州の北海道公演ツアーにて舞台撮影。これも、みている子どもたちがめんこい表情で、写真をここにアップしたいくらいなんだけれど、無理なんです…。残念。そのうちチラシになると思います(本拠地は九州だけど…)。

・所属する「泊原発廃炉の会十勝連絡会」の初主催イベント。脱原発、そしてさしあたって泊原発の停止→廃炉への動きが進むといいな。何かあったら北海道の人びとの暮しや自然、大変なことになります。

・慌ただしい予定の合間を縫うように、冬の森の撮影。

・3月11日札幌市民ホールで行われる震災メモリアルイベント「3.11メモリアル&報告会・講演会
いのちをつなぐ 明日を考える」の第2部コンサートにて映像上映で参加します。

・当初5月刊行予定だった新作写真絵本は予定が早まり4月中に上梓できそうです。お楽しみに。

・ということで、目下、印刷原稿入稿の締め切りまで、必死こいて準備中。来週一週間がヤマ。

・21日、22日は仕事で東京へ出ます。会いたい人は一杯いるんだけど、既に予定がいくつか入ってしまっていてあまりノンビリ過ごせなさそう…。

| 備忘録 | 00:37 | コメント(-) | trackbacks(0) | 先頭へ↑

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