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3.11メモリアル「いのちをつなぐ、明日を考える」

この日記にも全然事前情報を載せられなかったのだけれど、今日、札幌市民ホールでおこなわれた「3.11メモリアルコンサート&報告会「いのちをつなぐ 明日を考える」」に参加した。

主催団体からみかみめぐるさん、小野有五さん、被災地避難者2団体のそれぞれの代表である宍戸さん、本間さんからの報告、そしてジャーナリスト佐野眞一さんの講演が第一部。

第二部がコンサート。そのコンサートプログラム中、カンテレのあらひろこさん、馬頭琴&喉歌の嵯峨治彦さん、アフリカンドラムのジンベクラブの皆さんによる演奏のバックで、大きなスクリーンに森の写真を上映した。

準備段階の写真のセレクトから、じつに「荷が重い」仕事だった。

このイベントに参加することが嫌だったわけではもちろんない。

むしろ、昨年3月11日以降、震災がもたらした現実に対してあまりの自分の非力さを感じ続けてきた身にとっては、このような企画に自分の職能である写真で参加が叶うということだけでも心底嬉しかったし、実際、自ら望んで参加させてもらった。

ただ、だからといって自分の非力さには何ら変わりはなく、自分の拙い写真が震災に対してなし得ることとは一体なんなのかよくわからぬまま。

このような、「収束」など程遠い激烈な痛みのさなかにある問題と向き合う場において、自分の拙い写真を用いて何かするということは、正直、本当に重たかった。

写真を選ぶ際、もちろん僕の念頭には、森や自然が垣間見せてくれるいのちの清々しさ、美しさ、逞しさから明日を生きる希望や力を得られたら…という願いはあった。実際そのように写真を組んだ。

しかし、それを願えば願うだけ、それが単に震災の真の痛みを知らぬ者による自己満足の戯れ事にすぎないのではないかという念も湧いてきて、悩んだ。

地震と津波によって、あまりにたくさんの人と物事が深刻に痛んだ。そして、東電原発が撒き散らした「害毒」によって、森も痛み、自然も痛んだ。

その深刻さと、僕は果たして向き合えるのか。

東電の原発を爆発させたのは、安易に「安全神話」を許容してきたこの僕自身なのだ。深刻さの外側にいるような風で「森は美しい!いのちは逞しい!かけがえのない自然を大切に」などと微笑んでいられるのか。

しかし、結局はとにかくもう、そんな我が身のいかがわしさも呑み下し、いま込められるだけの誠意を込めて、写真に写っている草や木など被写体たちそのものの力に信頼して(すがって)、「やる」しかないのだけれど。

今日我々が担当した時間帯は、コンサート内容を4パートにわけた。嵯峨さん、あらさんのそれぞれのソロパートから始まり、二人の合奏を経て、太鼓が混じり合うラストへ至るという流れだ。

全体の構成を担っていた僕は、それぞれのパートにテーマを決めてタイトルをつけ、パートの区切りごとにその文字をスクリーンに写すことにした。

当初それは「大地へ」「光へ」「いのちへ」「明日へ」としていた。

ただ、前日になって急遽、全て「…へ」ではなく「…に」に変えた。

何度も何度もそのタイトル文字から始まる映像を見直しているうち、この「…へ」という語尾が含む欺瞞の悪臭に気づいたからだ。

「収束」など絵空事でしかない現状の中で、「…へ」などと方向を指し示すことができるだけのまっすぐな指を、僕は果たして持っているのか。

痛みの只中にあるいのちに対し、自然に対し、あまりに安易ではないか、あまりに能天気ではないか、あまりに尊大ではないか。

偉そうに「大地へ」「いのちへ」などというよりまえに、いまヒトとしてなすべきは、穢した大地“に”詫びることであり、痛んでもいのちであることをやめないいのち“に”真摯に学びを乞うことであり、そして、せめてもの希望を光“に”託し祈り委ねることなのではないか。

「~へ」などと手前勝手なベクトルを定めて視座の主体者を気取るより前に、今なすべきはむしろ、それら大地やいのちが無言のうちにヒトへ投げかける問いかけに、誠意を持って向き合うことなのではないか。

今を問う抜き差しならぬ「眼差し」は、ヒトの方へこそ鋭く差し向けられている。

自分で撮った写真に映る森の草や木、虫たちの姿と向き合い、また、ちょうど一年前にあまりにもたくさんのいのちが失われていったことに思いを寄せるうち、そんな考えに行き着いたのだった。

まあ、いつものように、考えすぎかもしれない。

たかが1文字の言葉の問題だ。

しかし、今日の報告も講演も、現実は決して生易しいものなどではなく、極めて深刻で重いのだと、切実な言葉で伝えていた。

人が人として生きる上ではやはり、「されど、されども、ことば」なのだ。

大好きな音楽家たちと、3/11という大事なひとときに心を合わせることができた嬉しさを感じながらも、やはり今日は重たい一日だった。



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